局中法度 其之壱
さてその頃、八木家の向かいにある前川邸。
局長近藤勇の居室では。
近藤が、目の前に置かれた書類を見ながら、難しい顔で腕を組んでいた。
左右には副長の土方歳三と山南敬介が対面で座っていて、これは芹沢鴨と谷右京を除いた、いわば非公式の幹部会議だった。
問題の書類は、土方が提出した動議である。
「あんたらが大坂に行ってる間ヒマだったんでな。ちょっと俳句の合間に書いてみた」
近藤は、やはり難しい顔のまま唸った。
「むう、良くできてはいるが…」
標題に「局中法度」と大書されたその書類には、続いて五つの項目が記されていた。
一、士道に背き間敷事
一、局を脱するを不許
一、勝手に金策致不可
一、勝手に訴訟取扱不可
一、私の闘争を不許
そして、最後にこうある。
右条々相背候者切腹申付べく候也
後世に名高い、新選組の鉄の掟である。
「時期尚早でしょう。これでは厳しすぎる」
山南が難色を示した。
土方は薄笑いを浮かべながら、膝のうえに頬杖をつき、上目遣いに山南を見た。
「あんたも、芹沢たちを追ん出す口実が欲しいんだろ?」
山南は顎を撫で、小刻みに頷いた。
「そういうことですか…しかし、この士道云々については、他の隊士たちだって、甚だ怪しいもんですよ」
「例えば、そう…例の死体の件かい?」
山南と近藤は、険しい目で土方に視線を注いだ。
「あれに限った話ではありませんが、まあ、そうです」
言うまでもなく、それは夜半に運び込まれてきた楠小十郎の遺体のことである。
今は、人目を避けるために、普段道場代わりに使っている長屋門に隠して薦を被せてある。
近藤たちは詳しい事情をまだ聞いていないが、監察方島田魁からは、沖田が手に掛けたとだけ報告が上がっていた。
「総司のやつ、遅いな」
近藤は、その釈明を聴くために沖田を呼びつけていた。
「どうも、遅くなりました」
ちょうどそこへ沖田が入ってくると、近藤が単刀直入に尋ねた。
「道場で寝ている二枚目の仏さんだが、あれはお前がやったのか?」
「ええ、まあ」
「なぜ報告しない」
「今、してるじゃないですか」
沖田はしれっと答えて、楠の一件の顛末を語った。
「楠っていうと、お琴さんが突き止めたっていう、あの?」
すでに近藤には、長州が送り込んでくる間者の情報がもたらされていた。
「そのようです」
山南がその事実を認めた。
「で?あの死体が、その楠小十郎ってわけか?」
土方が念を押すと、沖田はうなずいた。
「ええ」
「何考えてんだ?吐かせなきゃ意味ねえだろ」
「武士の情けってやつですよ。もういいですか?考試の立ち合いに戻っても」
沖田は素っ気なく応えた。
その件には、あまり触れられたくないといった様子だ。
確かに祐の血を見て一時は激情に駆られたものの、楠を斬った時の沖田は冷静だった。
「武士の情け」は強がりで、あの時は殺らねば殺られていたというのが本当のところだ。
「馬鹿野郎。まだ話は終わってねえ」
土方が叱りつけると、沖田はニヤリと笑った。
「そういえば、もうひとつ、まだ言ってないことがあった」
「ん?」
「今、境内でその立ち合いを待ってる連中ですがね、あの中にも、何匹かネズミが紛れ込んでるようですよ」
近藤が鋭い眼で沖田を睨む。
「それは確かか?」
「…多分ね」
近藤が人を呼んで、入隊者の名簿を持ってくるように命じたところへ、原田左之助が、文字通り転がり込んできた。
「こ、こ、近藤さん、要がきた!」
「なにごとだ?お前には、総司の代役を頼んだはずだろ」
「だから、行こうと思ったら来たんだよ、カナメ、じゃなかった、タケダカンリュウサイが!」
土方歳三は、また古臭い家名をひけらかす怪しげな浪人が売り込みに来たのだと思って、ウンザリしながら手を払った。
「はあ?タケダチンリュウサイ?誰だそれ?追い返せ」
「だから、カナメだよ、福田要、改め、武田観柳斎」
その名を聞いて、土方もようやく、市谷甲良屋敷の道場に出入りしていた、妙にクネクネした坊主頭の男を頭に思い描いた。
おそらく、近藤と山南も同様だ。
「ああ、あいつか。いつからそんな珍妙な名前になった?甲州流軍学ときて武田ナントカ斎なんて、まったく、なに考えてんだか。インチキ丸出しじゃねえか」
一応解説しておくと、甲州流軍学は武田信玄を祖とする兵法である。
「いいのよ。世の中、どうせ肩書きに弱いバカしかいないんだから」
部屋の入口から声がして、皆が一斉に振り向くと、そこには、すでに武田が仁王立ちしていた。
「うわっ、なに勝手に入ってきてやがんだ、てめえ!」
土方が文句を言うと、武田は即座にやり返した。
「相変わらず、頭悪そうな面してるわね、土方フクチョー。ハ、ずいぶん偉くなったもんじゃない。あら、総ちゃんも、おひさ」
沖田が苦笑いしてペコリと頭を下げる。
土方はケンカなら買ってやるとばかりに片膝を立てて、肘を預けた。
「てか、なんでいきなり、てめえが割り込んでくるんだよ?」
武田は、土方を無視して、山南敬介の頭を撫でた。
「実はさ、こないだね、小仏関所の知人に所用があって、日野宿を通ったの。でね、ついでに、大惣代の富澤さまん家にご挨拶に寄ったのよ。そしたら、あんたたち京に上ったっていうじゃない?ハー、もうビックリ!水臭いったらありゃしないわよ」
「いや、はあ。すみません」
山南も、縮こまって、ただ謝るばかりだった。
武田は近藤の前に進み出て、膝をついた。
「いさ…近藤先生、甲州流軍学者、武田観栁斎、微力ながらお力添えに参上仕りましたわよ」
「おお、これは力強い。やはり上京する時に、お声掛けすれば良かったかな」
懐の深さとでも言うべきか、なぜか近藤だけは、武田とも打ち解けて話せるようだ。
「ほら、道場に出入りしてた大槻の銀ちゃんなんかも、近藤さんは水臭いって嘆いてましたよ」
「大槻銀蔵か、懐かしい名前だ」
二人が昔話に花を咲かしているところへ、河合耆三郎が例の名簿を届けにやって来た。
「もういいか?見ての通り、いま、忙しいんだ。いいや、違うな。クソ忙しいんだ。申し訳ないが、お引き取り願えますかね?」
土方が、うるさいハエを追い払うように手を振ると、
武田は、河合が土方に差し出した名簿をヒョイと取り上げた。
「なあに、この名簿?」
「あ、コラ!返せ」
土方が手を伸ばすと、武田はひらりと身をかわして、名簿の表紙をめくった。
「あら、楽しそう。みんなでこんなもの睨みながら、ヒソヒソ話ってことは、さしずめ、間者当てゴッコでも始まるのかしら?相変わらず脇の甘いことねえ?」




