壬生潜入作戦 其之壱
中沢琴が島原遊郭の輪違屋に戻れたのは、日付が変わってからだった。
「お江戸に比べたら、この島原は、遊女の出入りに寛容どすけど、断りもなしにお座敷に穴を開けるて、どないなつもりどすか。最初に断ったはずどすえ?片手間で続けられるような仕事やおへん言うてなあ」
帰るなり、輪違屋善助から、こっぴどくお叱りを受け、進退を迫られる羽目になった。
「申し訳ございません」
「シッカリしたあんたのことや。能々の事情があったことは察しますけど、それとうちの信用は別問題どすえ?」
「どのような責めも、負うつもりです」
もともと気風のいい琴は、潔く非を認めた。
「ほほう。東女だけあって、なかなか往生際がよろしいな。
そやけど、普通なら足抜けを疑われてもおかしゅうない時間どす。
足抜けとなれば話は別や。
少し前まで大門の脇に『足止め地蔵』ゆうのがおしてなあ。そこに参れば、逃げた女郎も必ず捕まると言われたもんどす。ほんで、連れ戻された女郎は、どないなる思う?」
「足抜け」とは脱走のことで、遊郭という閉じた世界では、死にも値するご法度だった。
琴は、頭を下げたまま、一言も発しない。
「鞭で打たれたり、井戸へ逆さ吊りにされたり、それは辛い拷問を受けますのや。命を落とした者かて仰山おる」
島原には、洛中や洛外周辺地域の遊里全般を取り仕切る特権を与えられた「茶屋惣年寄」という町役人が存在し、この花街は、ある意味で治外法権的な、独自のルールで運営されていた。
つまり、輪違屋の言ったようなことも、ただの脅しではない。
しかし、
「どのような責めも負うと申し上げました」
琴はきっぱりと言い切った。
輪違屋はため息をついて、
「…まったく、難儀な娘やなあ。あんたは年季が明けとるようなもんやさかい、そこまでする気はおへん。けど、しばらくは、お座敷に上がるのも控えてもらいます」
「…え?」
琴は、あまりに肩透かしの処分に、思わず間の抜けた返事をした。
「なんや知らんけど、早よ、用事を済ませて来なはれ言うてますのや」
それは、琴が何事か厄介な事態に巻き込まれているのを察しての恩情だった。
「あ、ありがとうございます」
「その代わり、夜はちゃんと此処へ帰って来ますのやで?」
翌日の朝、琴は早速行動を開始した。
厳密にいえば、厄介事に巻き込まれているのは琴ではなく近藤たちだったが、長州の間者が複数人隊内に紛れ込んでいるとなれば、いつ山南や近藤の寝首を掻かれるか分からない。
この日も琴は浪士の格好をして、壬生寺の裏にある水茶屋「やまと屋」に、沖田総司と、阿部慎蔵、改め阿部十郎を呼び出した。
店先の緋毛氈を敷いた縁台に腰掛けると、琴はまず気掛かりを確認した。
「例の死体は?」
「夜のうちに、屯所に運ばせましたよ」
沖田はまるで家具の話でもするように、団子をかじりながら答えた。
「昨日も言ったけど、彼を浪士組に入れてほしいの」
琴は、沖田から阿部の方に視線を流して、昨日よりは幾分真面目に掛け合った。
「う~ん…最近、希望者が多くて、ちょっとした試験があるんですよ」
以前、阿部の腕前を見たことがある沖田は、顔を歪めて返事を渋った。
「だからさ、そこんとこの匙加減をよろしく頼むぜ」
阿部が厚かましく頼むと、
「あんた幹部なんでしょ?なんとかしなさいよ」
琴も命令口調で答えを迫った。
「偉そうだなあ!」
沖田が嫌な顔をして、一口茶をすする。
琴は、身を乗り出した。
「聞いて。つまりね、この阿部さんを楠小十郎に仕立てて、浪士組に入って来た間者を中から探らせるの」
「えっ?」
今度は、阿部が嫌な顔をすると、琴は冷ややかな目で阿部を睨んだ。
「当たり前でしょ?交換条件よ」
「けど、他の間者は、本当に楠の顔を知らないんでしょうね?」
沖田が、心配そうに尋ねる。
「さあ?」
「そんな無責任な言い草があるかよ!」
突っかかる阿部の顔を、琴は無言で押しのけた。
「それはどっちでもいいの。要は、間者が誰か、分かればいいんだから」
「というと?」
「楠の顔を知らなきゃ、間者は阿部さんに接触してくるはず。そして、もし楠と面識があれば、偽物を放っておくわけないもの」
「なるほど。阿部さんを襲ってきた奴が、間者ってわけだ」
沖田は琴の作戦に感心したが、納得いかないのは阿部である。
「敵が何人隊内に潜んでいるか分かんないのに、俺を餌にする気かよ!」
沖田は、再び考え込んだ。
確かに、そうなると阿部では心許ない気もする。
「ですよねえ。やっぱり、無理がありますよ…」
阿部が名案を思い付いたように手をポンと打ち、
「そうだ!お前が楠小十郎に成りすませよ」
と、琴を指差した。




