七星剣 其之壱
京、島原遊郭。
輪違屋。
明里天神こと、中沢琴が鏡台の前で紅を引いていると、禿が走って来てその背中に飛びついた。
「こら、ふざけてると、また叱られるよ」
琴が振り返って少女を睨む。
「天神!勝手口にお知り合いの方が来たはります」
「知り合い?私の?」
禿はコクリと頷いた。
「誰?」
「お名前を言わはらへんのどす。相棒てゆうたら分かるて」
目弾きの紅を薬指で伸ばしながら、琴は少し考えて、眉間に皺を寄せた。
「…なんか、嫌な予感がする」
勝手口に出てみると、案の定、
阿部慎蔵が立っていた。
案の定、というのは少し違うかも知れない。
何故なら、この時の阿部は、刀こそ二本差しに戻っていたが、染みだらけのボロをまとい、髪はザンバラ、無精ひげは生え放題で、おまけに草鞋の鼻緒も片方千切れていた。
あまりにボロボロに変わり果てていて、予想していた琴でも、最初それが阿部慎蔵だと分からないくらいだった。
「…なにその格好?」
琴は冷ややかに尋ねた。
「てかさ、あんた、お琴だよな?」
阿部の方も、芸妓姿の琴が本人だと確信を持てないようで、聴き返した。
「これは、仕事用の化粧なの」
「あ、ああ。そりゃそうだ。いや、その、まあ、こうなった経緯を話せば長いんだけどさ」
「そ。じゃあ、話さなくていい」
阿部は「そういうと思った」と言わんばかりに口をへの字に曲げた。
要するに阿部は、ただ一人浪士組の追跡から逃れ、這う這うの体で京に逃げ伸びて来たのだ。
「いやあ、ここを探し当てるのに苦労したぜ」
「ていうか、どうしてここが分かったの?」
「ま、結局、小鉄に聞いたんだけどよ」
小鉄というのは、京で売り出し中の侠客、「会津の小鉄」のことである。
彼は、会津藩の諜報活動にも関わっていて、様々な裏の情報にも通じていた。
「忌々しい。あの男、常に私の行動を把握してないと気が済まないらしい」
琴は親指の爪を噛んで毒づいた。
台所の隅でヒソヒソ話をする二人に、通りかかった女中が怪訝な視線を投げる。
「とにかく、そんなとこに突っ立ってられちゃ目立つから入って!」
人目を気にした琴が、腕をつかんで台所に引き込もうとすると、
「お前、そんな厚化粧より、元の方が綺麗だぜ?」
阿部は手を引かれながら、その顔をしげしげ眺めた。
「あら、ありがと。なに?口説いてんの?」
「アホ!そんなんじゃねえよ」
「じゃあ、なんで心にもないお世辞を言うのか、教えてもらえるかしら」
「いや、今のはお世辞じゃないよ?じゃないけど…実は、こないださ、大坂で下手打っちまって、追われてんだよ。しばらく匿ってもらえませんかね?」
琴は掴んでいた手を乱暴に突っ放した。
「あのね、ここは置屋なの。無理に決まってるでしょ!」
「だよな。いや、お前の立場も分るんだけどさ…事情が事情でよ…」
結局、琴は四半刻もかけて、一通りその事情とやらを聞かされる羽目になった。
「な?どんだけ切羽詰まってるか、分かるだろ?俺だって、やり残した事が一杯あるし、まだ死ねねえんだよ」
「じゃあ、死んじゃった時のために、そのやり残したことも聞いといたげる」
阿部は指を折りながら、理由を並べ立てた。
「そりゃおめえ、ほら、アレだよ、お国のために働くんだよ。攘夷とか勤王とか、みんな言ってんだろ?アレ」
そこには幾分かの本心も混じっていたが、照れ隠しのため、わざと空々しい態度をとってしまう。
琴は、もういいと手のひらを突き出した。
「で?文無しで、どうやって此処まで帰って来たの?」
飽きれながら尋ねると、阿部は、見込みがありそうだと身を乗り出した。
「それがさ、道頓堀の五つ櫓まで逃げてきたところで、陰間茶屋から出てきた親切なおかまが金を貸してくれてさ」
「…色々と、人が出来ないような経験をしてるわねえ」
琴は、顔をしかめながら皮肉たっぷりに感心して見せた。
さて、ここで一旦、回想シーンを挟んで、新たに加わる新選組の主要隊士を紹介しなければならない。
いたずらに登場人物だけが増えていって恐縮だが、新選組という題材の性質上、仕方ないと割り切ってもらいたい。(あるいは、そんなことはないと思うが、筆者の構成力にも問題がないとは言い切れない)
一日前。
大坂、道頓堀劇場街、
通称、五つ櫓。
道頓堀沿いの阪町界隈には、弁天座、朝日座、角座、中座、浪花座という、幕府が公認した五つの大劇場が集中しており、この日も、表通りには芝居目当ての客でごった返していた。
芝居小屋の正面玄関の屋根に組まれた櫓には、それぞれの座紋を染め抜いた幕が張られており、
これが「五つ櫓」という名前の由来になっている。
軒下には『まねき』と呼ばれる、出演者の名前を墨書きした看板がズラリと並び、通りのあちこちに色鮮やかなのぼりが立てられて、この一帯は、まさに大坂のブロードウェイといった華やかな雰囲気に彩られていた。
しかし、一本路地に入れば、そこにはまた、この街の別の顔が隠れていて、
若衆茶屋、または陰間茶屋などと呼ばれる、男娼専門の売春宿が軒を連ねている。
さて、もう時刻は昼近くになるというのに、その陰間茶屋の一軒から坊主頭の男が出てきて、気だるげに伸びをした。
「はー、大阪まで来たけど、やっぱし最近の若い子は大人しくてつまんないわー。もうちょっと刺激的な蔭間はいないもんかしら」
何処かしら中性的な雰囲気の男で、
名を武田観柳斎-タケダカンリュウサイ―といった。
後の新選組五番組長、甲州流軍学を修め、近藤勇の軍師として活躍する男である。
武田は、ふと路地の物陰に動くものを見た気がして、伸びあがったまま静止した。
「ん?」
目を凝らしながらゆっくり近づいていくと、芝居小屋の楽屋口の脇にうずくまる人影がある。
「ちょっと!ちょっとあんた!」
武田が声を掛けたのは、観劇の客が捨てた幕ノ内弁当(芝居の幕間で食べるためこう呼ばれた)の残りを漁っていた阿部慎蔵だった。
逃亡者阿部は、裏路地から裏路地へと大坂の町を南下してきたところである。
ビクついて、いきなり刀を抜いた。
「ち、近づくな!」
武田の方はまったく動じる気配もない。
「やあねえ。何も獲って食ったりしないから、そんなもん仕舞いなさいよ…」
「な、な、なんだ?てめえ。こっち来んなつってんだろ!」
しかし武田は、震える剣先を凝視しながらツカツカと歩み寄り、とうとう刀身をつまんで、阿部の顔を覗き込んだ。
「ね?あんた、コレ…ちょっと見せてくれる?」




