大坂を牛耳る男 其之弐
近藤はドスンと腰を下ろして腕を組んだ。
「大塩平八郎は義士、不遇の英雄だ。大塩に十手を向けるような与力なら、貪官汚吏(悪い役人)の類に違いねえ」
「…それ、本気で言ってんのかい?」
井上は呆れて問い返した。
近藤は冗談めかして言ったものの、三国志の関羽に始まり、赤穂浪士の大石内蔵助まで、義士と呼ばれる人物には元来強い憧れがあって、自身もそうありたいと願っていたから、大塩に肩入れする気持ちが、内山への評価にバイアスを掛けていたのは否めない。
しかし、比較的冷静な蔵之助の見立ても、そう大差なかった。
「冗談ごとやなく、芹沢さんなんか、いつもの態度やったら、ろくな取り調べもないまま、お縄を頂戴なんて事になりかねませんよ?」
すると原田左之助が声を落として、近藤に相談を持ち掛けた。
「…それもアリなんじゃねえか?」
近藤は、なにやら決意を秘めた目で、原田をジロリと見た。
「どうやら、芹沢さんとは、いずれケリをつけねばならんようだ。だが、今回は試衛館の連中も関わってるし、下手に事を荒立てたくない。何より会津の体面を保たねばならん」
それは、つまり芹沢との確執は、自分たちの手で決着をつけると言っているに等しかった。
「こりゃ失礼」
原田はスゴスゴと引き下がり、山南はもう一度頭を下げた。
永倉、沖田もきまりの悪い顔をして押し黙っている。
近藤はもう一度一同を見渡して、決断を下した。
「この一件は、無礼討ちとして届け出る。五月に転任してきたばかりの松平信敏様なら、あるいは公平なお裁きをくださるかもしれん」
何を以て公平とするのか、近藤の理屈も自分勝手と言えなくはない。
翌朝、近藤勇は三度、西町奉行所の前に立っていた。
その門構えも昨日とは違って威圧的に見える。
西町奉行所を訪れた近藤が通されたのは、広間ではなく、調べの間だった。
証人ではなく、容疑者であるという立場を弁えよという、無言の圧力だろう。
いきなり内山彦次郎本人が現れた。
「これは内山様。本日のお調べは同心の方々が担当されるとばかり…」
近藤は、いきなり好戦的な態度で皮肉った。
そちらがやる気なら、受けて立つという彼なりの意思表示だった。
内山の眉がピクリと動いた。
「この案件は、事の重大性に鑑み、私が預かることになり申した」
内山は近藤の前にゆっくりと座り、肘置きに頬杖をついた。
昨日は部下に任せるなどと言っていたが、やはりあれは近藤を挑発するための方便で、手を緩める気はないらしい。
しかし、近藤の後ろに続いて誰も部屋に入って来る者がないことに気づくと、内山の顔から例の張り付いた笑みが剥がれ落ちた。
「はて。芹沢はどうした?」
「その件ですが、あれから隊のものに事の次第を確認した結果、昨日の刃傷沙汰は、この通り、無礼討ちとして届け出ることにいたしました」
近藤が淡々と答え、懐から出した書状を押しやると、内山は不快感を隠そうともせず、扇子の先でそれを突き返した。
「理というものを分かっておられぬようだな、近藤殿。無礼討ちといえど、これは『公事方御定書』に照らして、その判断が妥当であったか、公正に吟味せねばならん」
「ええ。ですから、こうして顛末をしたためて参りました。あとは、奉行の松平信敏様に吟味していただきたく存じます。もちろん必要とあらば、御白州の場にて、芹沢やその他の隊士たちから申し開きいたすことも厭わぬ所存にて」
内山は、こめかみに青筋をうかべて、手にした扇子を近藤に投げつけた。
「身の程を知るがいい。貴様らごときを、お奉行様直々に取り調べなさるはずがなかろう!これ以上、出所の知れん素浪人に大坂の町を歩かれては迷惑じゃ。さっさとあの汚らしい獣どもを連れて東国へ帰るがいい!」
近藤は頭を低くしながらも、その目にはまだ挑戦的な光が宿っていた。
「そのお返事は、なかなか興味深いですな」
「…なんだと?」
「あなたはこの事件を、不逞の輩が、酒の上で乱暴狼藉を働いた、謂わばありきたりの刃傷沙汰と捉えておいでのようだ。なのに、事を公にされることも、気が進まぬご様子。なぜです?」
近藤は反撃に出た。
「この件は、私が松平様より預かっておるからだ!その判断は、この私が、徹底的に調べてから下す!」
「ほんとうは何があったか、すでにご存知ではないのですか。いや、貴方は何が起きるのか、最初から知っていたのでは?」
内山のツルリとした顔には、憎悪と、怒りと、そして深い皺が浮き出た。
「つまりそれは、私がやらせたと言いたいのかね?」
「さあ?その問いに、予断をもって答えることは差し控えた方が良いでしょうな。しかし、仮にも京都守護職預かりの我々が、松平河内守(松平信敏)に宛てた書状が、途中で握り潰されるようなことがあれば…よもやそのような事はないと信じておりますが、もし、そんなことがあれば、世間に余計な疑念や憶測を呼ぶのは免れないでしょう」
つまり、お互い後ろめたい部分があるのだから、この件には蓋をした方が賢明だと脅したのである。
義士大塩平八郎の復讐を目論んだ近藤としては、あまり相応しくない手段であったが、
不本意ながらも、ここに来てようやく政治的な駆け引きの何たるかを習得しつつあったと言える。
「下郎!さがれ!」
顔を真っ赤にして出口を指差す内山に、近藤は膝を擦りながら近づき、投げつけられた扇子をその手に握らせた。
「近いうち、またお会いすることになるでしょう」
「この私を脅す気か」
内山は、肘置きに手をかけて立ち上がると、ワナワナ震えながら問いただした。
「お戯れを。奉行所のお調べが続くなら、今後もお会いする機会があろうという意味ですよ」
近藤も立ち上がって、内山を見下ろす格好になった。
「内山様はいま、感情的になっておられるようなので、冷静な判断は無理でしょう。今日のところは引き揚げます。しかし、もう一度よくお考えください。この件を深掘りすれば、困った立場に追いやられるのは、むしろ内山様の方ではありませんかね」
内山はギリギリと歯軋りをした。
「では失礼」
近藤は悠然と調べの間を後にした。
しかし、それはある種の虚勢だった。
内山のような男に弱みを見せれば、笠に着て畳みかけてくるのは目に見えている。
今日のところはなんとか耐え抜いたものの、今後も内山は、執拗に追究を続けるだろう。




