食い詰め浪人 其之弐
ところでその頃、もはや間違いなくその「怪しげな連中」の一人である阿部慎蔵が、京の南、伏見にある中書島の遊郭界隈をウロついていた。
もちろん、彼に遊ぶ金があるわけもない。
ここ中書島は、高瀬川が宇治川(淀川の京都側の呼び名)へ注ぎ込む地点に位置する中洲で、京における水運の要衝ともいうべき場所である。
中洲は、平戸橋・蓬莱橋・京橋などで陸地と結ばれており、それぞれ橋のたもとには、三十石船の船着場があった。
つまり、彼は性懲りもなくまた(!)、大坂に戻るべきか否かを逡巡していたのだった。
ひょんなことから暗殺の目撃者となり、大坂から逃れた阿部だったが、逃亡先の京では長州藩士と諍いを起こし、今度は彼らに目をつけられる身となってしまった。
しかも、今や京の町には二千とも三千ともいわれる長州兵が駐留しており、町のいたる所は長州藩士だらけである。
これまでの気楽な路上生活が難しくなると、たちまち所持金が底をついてしまった。
そんなわけで、本拠地である大坂の方も、そろそろほとぼりが冷めた頃ではないかという希望的観測にすがり始めたのだ。
しかし彼は、ここ伏見にも長州藩邸があることをすっかり忘れていた。
京橋の船着場まで来てみると、それらしき紋付を着たサムライがあちこちを歩いている。
やむなく遊郭に逃げ込んだ阿部は、道ゆく遊女たちの顔を検分したりして船が来るまでの時間をつぶすことにした。
彼は、金ヅルとしてアテにしていた例の辻君を思い出していた。
彼女に「人斬り討伐」を持ちかけられて、かれこれ三ヶ月経つから、少々機を逸した感もあるが、岡田以蔵が死んだという噂はまだ聞かない。
ついつい、あの辻君とバッタリ出くわさないかなどと都合のいいことを考えてしまう。
もっとも「辻君」というくらいで、彼女たちはいわゆる街娼だったから、こんな場所にいるはずもない。
むしろ彼は、遊廓に長州藩士が居ても少しもおかしくないことに早く思い至るべきだった。
京橋の方角から歩いてくる二人連れのうち、片方に見覚えがあることに気づいて、阿部は、あわてて路地に身を隠した。
松下村塾四天王のひとり、入江九一である。
二人のいで立ちから察するに、相手の男は遠方から京橋の船着場に着いたばかりという感じだ。
つまり、入江の方は、出迎え役といったところだろう。
二人が阿部の潜む路地のまえを通りすぎたとき、その会話の断片が漏れ聞こえた。
「…吉村さんがいてくれれば心強い…」
「吉村」と呼ばれた相手の男は、何か応えたが、訛りがひどくて阿部には聴き取れなかった。
しかし、その訛りには聞き覚えがあった。
大坂の河内屋という本屋の前で目撃した、あの暗殺者と同じ御国言葉。
土佐者だ。
妙に月代(頭のてっぺんを剃った部分)がせまいのも、彼らの流行りである。
二人はそのまま、半町(約55M)ほど先の妓楼の中に消えていった。
「昼間っから酒飲んで女遊びとは、長州藩士ってなあ、いいご身分だな」
阿部は、図らずも土方歳三と同じようなグチをこぼした。
しかし、その長州藩士が接待するほどの人物であれば、吉村という男もそれなりの大物ということになる。
「こないだの様子だと、ヤツらが噂の尊皇攘夷派ってやつだな。じゃ、あの土佐訛りは、さしずめ土佐勤王党ってとこか。京の町もいよいよヤバくなってきやがった」
実はこの「吉村」こそ、幕末における最も先鋭的な過激派のひとり、
吉村寅太郎 ―ヨシムラトラタロウ―だった。
彼は前年、寺田屋で摘発された関白・京都所司代襲撃に呼応した大規模な挙兵計画に参加するため、土佐勤王党の盟主、武市半平太と袂を分かって、土佐を脱藩していた。
寺田屋の計画が露見した煽りで、一度は捕縛され、土佐に連れ戻されたものの、その後放免となり、こうして再び京洛に舞い戻ってきたのである。
つまりは、伏見義挙の首謀者、清河八郎、真木和泉らの同志であり、特A級のテロリストだ。
なにせ、「あの」武市半平太が二の足を踏むような暴挙にさえ、躊躇しない男である。
そして、彼は、ほどなく「天誅組」の指導者として前線に復帰することになる。
もちろん、阿部にそこまで先を見通せるはずもなかったが、男が醸し出す不穏な空気は、彼を警戒させるのに充分だった。
そんなとき、
「よう、あんた」
阿部は背後から声をかけられて飛び上がった。
「うわーっ!」
振り返ると、痩せぎすのサムライが目を血走らせて立っている。
手にした陣笠には、一の文字に三ツ星(∴)、長州の紋だ。
「くそ!」
己の迂闊さを呪って身構えるも、なぜか長州の男に殺気はない。
実のところ、阿部慎蔵は少々自意識過剰だったと言わねばならない。
そもそも長州藩士たちは、彼のような小者など、毛ほども気に留めていなかったからである。
しかし、この痩せぎすの男にしても、用もなく声など掛けてこないだろう。
阿部は、男が自分の帯をじっと見つめているのに気がついた。
「…え?」
同じように腰のあたりを眺めてみるが、別に変わったところもない。
「薬をくれ」
男は、唐突に要求した。
ワケが分からず、阿部はしばらくキョトンと突っ立っていたが、やがて相手の正気を疑うように、鼻面を突きつけた。
「おまえ、俺が薬屋に見えるか?」
「その腰からぶら下がってる根付の先は、印籠じゃないのか?」
「ああ、これ?」
辻君からもらった奇妙な形の根付に眼をやる。
「いや、そうだが…しかしこれは…」
「売るのか、売らないのか」
阿部は、印籠を手に取ってフタを外すと、中をのぞきこんで眉をしかめた。
「別にかまわんが、だいたいコレ、なんに効く薬だか…おまえ、どっか具合でも悪いのか?」
「いいから、そこに入ってるのを全部よこせ。一両でいいか」
長州の男は、なかば無理やり阿部に金を握らせると、薬包をひったくるように奪い、さっさと踵を返した。
その間、ただ呆然として、されるがまま金を受け取った阿部も、ズッシリとした小判の重みが手のひらに伝わってくると、ようやく我に返った。
男が路地の角を曲がって見えなくなるまで、なんとか平静を装ったものの、内心は小躍りしたい気分だ。
「い、一両って…ああ、ビックリした。つーか、いったいどういう薬なんだ、こりゃあ?」
空になった印籠をしげしげ眺めてから顔を上げると、先ほどの男が目の前に立っている。
「う、うわーっ!な、な、なんなんだおまえ!まだなんか用か?」
「そういえば、あんたに聞きたいことがあってな」
男は、荒い息づかいでこたえた。
「き、き、聞きたいこと?なんだよ、早く言えよ」
「…ああ。あんた、田中河内介が何処に行ったか、知らないか」
阿部は、思わず眼を見開いた。
あの辻君から聞かされた合言葉だ。
必死で記憶の糸を手繰りよせる。
「あ…ああ、そうか。田中なんて奴は、ハナから何処にもいなかったってよ」
そして、お伺いをたてるような上目遣いで、男の顔をじっと見つめた。
男はしばらくのあいだ、黙ってその目を見返していたが、やがてボソリとつぶやいた。
「…お前に伝言だ。桃の節句、亥の刻、壬生寺にて待つ」
「え?」
「確かに伝えたぞ」
男は有無を言わさぬ調子で念を押すと、足早に立ち去った。
「ちょっ…待てよ!壬生寺ってどこだよ!」
ぽつねんと取り残された阿部は、眉間を人差し指で押さえながら独りごちた。
「しかし、どういうことだ?あの女、俺が京にいることを知ってたのか?」




