大坂を牛耳る男 其之壱
大坂、松屋町、西町奉行所。
近藤勇と井上源三郎は、ようやく広間へと通された。
「お待たせして申し訳ない」
公事方与力、内山彦次郎が姿を現し、二人に軽く頭を下げる。
どうやら直々に取り調べをするつもりのようだ。
ところが、その取り調べが始まって間もなく、
「お取込み中、失礼いたします」
とひとりの同心が入ってきて、内山になにごとか耳打ちした。
「ほうほう…ふむふむ…ほうほう」
聞き終えると内山は、同心を下がらせ、いかにも落胆した顔で近藤に向き直った。
「近藤殿、少々困ったことになり申した。曽根崎の方で酒に酔った不逞浪士どもが何やら騒ぎを起こしたらしい」
「そういうことであれば、我々浪士組もお役にたてるかと存じますが」
近藤が申し出ると、内山はところどころ歯の抜けた口にニタリと気味の悪い笑みを浮かべた。
「良いか、近藤殿。この大坂は、京とは違う。ましてや江戸とも、だ。
天領とはいえ、此処は良くも悪くも商人の町でな。
この町を支配しているのは、大樹公であって大樹公ではない。ましてや、薩摩・長州でもなければ、天子様ですらない。お分かりかな?」
「…さて、何か煙に巻かれているようにしか思えませんが」
近藤はそう言って、内山がまた口を開くのを待った。
「…金じゃよ。この街を支配してるのは金じゃ」
「話が見えませんな」
「例えば、役人に金を握らせて、抜け荷を積んだ船を港につけている藩があるなどという噂もある。それが事実だとすれば誠に由々しき問題ではあるが…金さえあれば、そうした無法が罷り通るのが、この大阪という街なのじゃ」
「つまり、何が仰りたいのでしょう?」
「フォフォフォ、つまり。大坂の治安は、お主らごときの手には負えぬ。ここでは坂東武者の出番などないということじゃ」
内山は、もはや浪士組への嫌悪感を隠そうともせず、
ふたりは、しばらくの間、無言のまま視線を交錯させた。
「しかし、我々はこの度、会津公からの命令で下坂しております」
近藤が異を唱えると、内山は騙るに落ちたなとほくそ笑んだ。
「なるほど…時に、先ほどの話であるが、騒ぎを主導した男は、芹沢鴨といって、私の記憶違いでなければ、昼間ここに来た貴隊の首領が、そのような名ではなかったかね?」
「え」
思わず小さな声を漏らしたのは、井上源三郎だった。
近藤は、答えに窮した。
芹沢鴨などという名前の男が他にあるわけもなく、あの芹沢なら十分あり得ることだからだ。
内山は張り付いたような笑顔のまま、子供を諭すような口調で言った。
「今朝も申し上げたが、小笠原様の入港以来、町は不穏な空気に包まれておってな。 我々は、この気に乗じて事を起こそうとする手合いの取り締まりで手一杯なのじゃ。これ以上厄介ごとを持ち込まれては困りますぞ」
そして、理解できたか、という風に二人へ首を突き出す。
近藤は下を向いたまま、苦々しい表情で答えた。
「しかし、芹沢にも、何かやむを得ない事情があったのかもしれません。一度戻って、本人から話を…」
「勿論、勿論。是非そうして頂きたい。いずれにせよ、奉行所としては、本人たちから事の顛末を聞かせてもらわねばならないですからな」
「では、すぐにも」
近藤がかしこまると、内山はさも迷惑そうに顔をしかめて見せた。
「やれやれ、貴公は、話をよく聞いておられなかったようだ。この非常事態下にあって、私の時間は、大変貴重だと申しておるのです。取り調べは部下がやるから、明日の朝一番に、芹沢以下、騒ぎを起こした浪人どもを、みな出頭させなさい。よろしいか?」
「はっ」
近藤と井上は、屈辱をこらえ、平身低頭で答えた。
そんなわけで、不逞浪士捕縛の調書もほどほどに辞去を告げると、
内山は扇子の先で二人を追い払うような仕草をして、
「ご苦労」
そうひと言告げ、ピシャリと襖を締めて出て行った。
井上と近藤は、伏したまま目を見合わせ、険しい表情でささやき合った。
「取り付く島もないという感じだったな」
「―にしても、あいつら…」
そして、二人がようやく面を上げたとき、
襖の向こうから、内山彦次郎の声が漏れ聴こえた。
「ふん、見たことか。野良犬共が」
それは明らかに、二人に聞こえるよう意図して発した言葉だった。
ようやく奉行所を解放され、帰途についた近藤勇らは、八軒家の船宿京屋忠兵衛方で、山南敬介らと合流した。
「奉行所で力士たちとの乱闘騒ぎの件を聞いたが、あれはお前達のことか?」
近藤が座る間もなく山南たちを問い質すと、 山南が手をついて謝った。
「すみません。私の至らぬせいです」
永倉、原田、沖田も、それに倣って頭を下げる。
「まったく!」
近藤は、背にした壁を殴りつけた。
山南から一通りの説明を受けた近藤は、大きなため息をついた。
「つまり、これは仕掛けられた罠で、お前たちはその挑発に乗ってしまったと?」
「初めから、ここまで事を大きくする意図があったとは思いませんが、彼らが何らかの悪意を以て我々に近づいてきたのは間違いないでしょう」
内山彦次郎への不信感は、募るばかりである。
「とすると、明日の取り調べもすんなり終わるとは思えんな」
「問題はそこです。当然、主犯格の芹沢さんは、お調べを逃れられないでしょうが、そこでいつもの如く短気を起こされては…」
山南が語尾を濁すと、近藤はしばらく目を閉じて黙考した。
「いや。明日は俺一人で行こう。あの慇懃無礼な男と芹沢さんがまともにぶつかったら、何が起こるか分かったもんじゃない」
沖田総司は先ほどまでの殊勝な態度をコロリと変えて、
「そんなにやなヤツなの?」
と身も蓋もなく訊ねた。
顔をしかめる近藤に代わって、地元出身の佐々木蔵之介が説明を買って出る。
「あれでも若い頃は、大塩平八郎の乱で手柄を挙げたりしたそうですがね。我々庶民からすれば、どうにも胡散臭い役人ですよ」




