夕涼み 其之肆
芹沢は、その様子を愉快そうに眺めていたが、やがてフンと鼻を鳴らし、
「んじゃ、あとは頼んだぜ?お嬢ちゃん」
そのまま我れ関せずと、立ち去ろうとした。
小寅は芹沢をキッと睨みつけ、大声で呼び止めた。
「あんた、ちょっと待ち!このまま知らん顔していく気ぃか?」
「あ?」
ピクリと眉を動かして、芹沢が振り返る。
「どういうつもりや知らんけど、ここは花街やで!花街には花街の流儀ちゅうもんがあるんや!」
「そいつぁ知らなかったな、後学のために教えてくれよ」
挑発する芹沢に、小寅はツカツカと歩み寄り、腰の脇差を引っこ抜いた。
「癇癪起こして、こんなもん振り回したらあかん言うこっちゃ!ここは皆が楽しみに来る場所や!ドアホ!」
隊士たちは、芹沢が次にどう出るのかと固唾を飲んだ。
しかし、
「…そいつあ、すまなかった。あやまるよ」
芹沢は気の抜けたように微笑んで、素直に頭を下げた。
そこへ、
「借りてきました!」
先ほどの野次馬が戸板を抱えて戻ってきた。
「ほな、それにお相撲さん載せて!」
戸板は即席の担架である。
とは言え、怪我人は巨体の力士だ。
到底、二人だけで運べるものではない。
「手伝おう」
責任を感じた山南敬介が手を貸そうとしたが、熊川は痛みをこらえながら、その手を振り払った。
「意地っ張りやなあ…」
小寅は呆れて熊川を見下ろし、野次馬から、さらに体格のいい若者を二人見繕って、脇差の鐺で指した。
「ほんなら、そこのあんたとあんた、一緒に運んだげ!」
「あの、でもどこに…」
小寅は、そのまま脇差の先を、堂島川の方に向けた。
「北浜に、緒方洪庵先生ゆう、えらいお医者さんが居はるさかい、そこへ連れてったげ」
「ええ!?そやけど、わしら、京橋の方から来たんや。この辺は不案内で…」
若者の一人が、口ごもりながら言い訳を始めた。
「淀屋橋を渡った先で、そこら辺の人に聞いたらええ。『適塾』言うたらすぐ分かるわ!」
「そやけど…」
「グダグダ言うてんと、ホラ、急ぎ!」
若者たちは、まだ堂島新地で遊びたい様子だったが、小寅は口応えを許さず、急き立てた。
すると、野次馬の中にいた、どこかの楼主と思しき老人が口を挟んだ。
「そやけど、小寅ちゃん。緒方先生は、奥医師に推挙されはって、今はお江戸のはずやで?」
因みに、緒方洪庵とは、天然痘のワクチン普及に寄与した名医で、この日からわずか七日後に、体調を崩し、江戸の地で客死している。
「ほんなら、福沢はんでも手塚はんでも、誰ぞお弟子さんがおるやろ!若い連中は、よお新地へ遊びに来るさかい、紀伊国屋の小寅に頼まれたゆうたら何とかしてくれはるわ!」
小寅は一気にまくしたてると、老人とのやり取りを、棒立ちで聞いていた担ぎ手たちを振り返って、ドヤしつけた。
「なに突っ立ってんの!急げ、言うてるやんか!!!!」
小寅はどちらかというと小柄で可愛らしいタイプだが、その剣幕には、大のおとな四人も恐れを成して小走りに駆けだした。
「もう遅いさかい、夜分すんません言て、ちゃんと謝るんやで!」
小寅は遠ざかってゆく救急の担架に手を振った
「たいした仕切りっぷりだな」
芹沢が茶化すと、
「フン!こんなもんが、武士のタマシイなんか?ほれ、返したるわ」
小寅は、乱暴に脇差を突っ返した。
芹沢は鞘の中ほどを掴み、刀を拝領するような仕草でふざけて見せた。
「気に入ったぜ、お嬢ちゃん。まあ…美人、と言えなくもねえな。どっかの芸者か?」
たしかに彼女には、その奇妙なあだ名に似合わず、コケティッシュな色香があった。
「お嬢ちゃん?ハ!あんたなんかに気に入っていらんわ!どっかで見た顔や思たら、あんたら、前にも紀伊国屋で騒ぎ起こしたやろ?」
「どうだかな。なんせ、黒船以来、俺の周辺は驚天動地の連続でね。騒ぎなんざいちいち覚えちゃいないが、なんかあったんなら、だいたい俺のせいだな」
不敵に言い放つ男を、小寅は怒りに燃えた目で見返し、
これが中沢琴の言っていた壬生浪士組だろうと確信していた。
「俺は壬生浪士組筆頭局長、芹沢鴨だ。また会えるといいな」
図らずも、芹沢が名乗ると、
「うちは今日、この街を出ていくんや。二度と会う事もないわ」
小寅はそう言って突っぱねた。
「そいつは残念」
しかし、運命の皮肉とでも言おうか、芹沢鴨と豚姫、二人の因果はここでは終わらなかった。
さて、そんな事情を知らない付き人たちは、小野川部屋に逃げ帰って、事の顛末を洗いざらい打ち明けた。
それを聞いた仲間の力士は、ぞろぞろと連れ立って西町奉行所に駆け込み、与力内山彦次郎に浪士組の非道を訴えた。
「暫し、そこで待て」
内山は力士たちを内玄関の土間に立たせたまま、そう言いおいて奥に引っ込んでしまった。
しばらくすると数人の同心が戻ってきて、力士たちを白洲の脇にある物置まで先導すると、中に招き入れた。
「好きなだけ持って行くがいい」
同心が指し示した壁には、六角棒がズラリと立て掛けてあった。
鍛鉄の芯を入れた樫材の先端に、さらに鉄板を巻いた六尺(1.5M)はある金砕棒で、力士でもなければ振り回せない重さだが、それだけに当たれば間違いなく死んでしまう。
「これは?」
力士の一人が尋ねると、
「この得物を攘夷のために遣わす。市中の平安を守るためなら、それをどう使おうがお前たちの勝手だ」
筆頭同心が、内山彦次郎の意向を伝えた。
「分かりました!」
その言葉を、お上から報復の公認を得たと解釈した力士たちは、浪士組のいる曽根崎新地へと引き返していった。
その数、30名。




