夕涼み 其之弐
「えー?またなの?なんで、そういうの気づいちゃうかなあ」
奉行所での一件を思い出した沖田は、お門違いのクレームをつけた。
永倉が斎藤の言った方向に素早く視線をやると、確かに岸辺を船と並行して歩く男がいる。
「あ?気のせいじゃねえのか?」
「間違いない。あの男だ。難波橋の上から、ずっと砂浜伝いについて来てる」
銀杏髷に浴衣姿の大男である。
斎藤が見間違えるとも思えなかった。
「あの風体、力士に見えるけど…でっかい岡っ引きかなんか?」
沖田が首をかしげると、永倉は努めてそちらを見ないようにしながら、斎藤に歯を剥いてみせた。
「だ~から言ってんだよ!遊山船に、てめえみてえな仏頂面が乗ってちゃ下っ引き(岡っ引きの手下)だって怪しむさ」
その頃には、(原田左之助以外の)他の者も三人の様子がおかしいのに気づきはじめた。
芹沢が立ち上がり、額に鉄扇をかざして、岸に目を凝らす。
「あ?アレか?何者だ?」
永倉は、あわてて芹沢の帯をつかむと、席に引き戻した。
「芹沢さん!気づかれちまうだろ!座ってろ!」
「船頭さん、悪いけど岸につけてくれる?」
仕方なく沖田が頼むと、
「ほんなら、鍋島浜につけまひょ」
船頭は、大江橋の手前にある岸辺を指差した。
「鍋島浜」の名は、鍋島氏が治める佐賀藩の蔵屋敷があることに由来する。
この蔵屋敷は、敷地内まで水路を引き込んだ「船入」と呼ばれる河岸まで備えた巨大なもので、
貨物船が蔵屋敷の塀の中まで入っていけるため、川浜には一般の船が横付けできた。
「なんだよ。せっかく、これからって時によう」
原田が腹を出したまま文句を言うと、
「おめえの切腹自慢には、みんな飽き飽きだとよ!」
永倉はその鳩尾に軽く拳をくれて、酔っぱらいを黙らせた。
せっかくのクルージングを中断された芹沢鴨が妙に大人しいのは、端からこの近くにある曽根崎新地で飲み直す計画があったからだ。
曽根崎新地の外郭を区切る曽根崎川は、船を係留する堂島川の支流で、鍋島の蔵屋敷から歩いてすぐのところにあった。
船頭が船を岸辺に寄せると、尾行者の方もさすがに様子がおかしいと勘づいたようで、
浜辺から土手を上ってこうとするのを、野口健司が指さした。
「あ、あの野郎、逃げやがった!」
「任せろ」
斎藤は脇差を掴むと、船が岸に着く前に、陸に飛び降りていた。
早々にケリをつける気である。
大男は、川沿いの道を西へ、盛り場へと足を運ぶ客をかき分けてゆく。
早足で追いすがる斎藤に気づいたのか、人混みに紛れて巻くつもりのようだ。
しかし、やがて堂島新地へと通じる難波小橋に差し掛かった時、男は小さな声で「あっ」と唸った。
岸辺伝いに先回りした芹沢鴨が、目の前に立ちふさがっていたのだ。
「よう、俺たちになんか用かい?」
芹沢がニヤニヤしながら尋ねると、
「は?…なんのこっちゃ分からん」
大男は白々しく惚けてみせた。
「あんた、難波橋からコソコソ付けまわってたお相撲さんだろ?」
この時期、堀江新地では、ちょうど相撲興行が行われていた。
「何を言うとるのか、さっぱりワヤや。ええから、そこ退かんかい」
なおもしらばっくれる力士に、芹沢は例の剣呑な笑みを浮かべ、
「こういう悪戯は感心しねえなあ」
懐から大鉄扇を取り出すと、
いきなりその頭頂部を強かに打擲した。
ゴスッ。
鈍い、嫌な音がして、力士はうずくまり、橋の羽目板に両手をついた。
浪士組の隊士たちも、思わず顔をしかめる。
「おおっと、失礼。ちっとばかし、お仕置きの力加減を間違えちまったかな」
額から大量の血を流しながら、男はふらふらと立ち上がった。
「うう…」
そのまま、来た道を引き返そうとする力士を、芹沢はゆっくりと追う。
「おいおい、お相撲さん、話はまだ終わってねえよ。残った、残った」
山南敬介が、その腕をつかんで引き止めた。
「もうそのくらいでいいでしょう」
芹沢は、振り返ると山南の顔をマジマジ見て、
「ちがうよ、あっちに盛り場があんだろ?方向が一緒なだけさ。どこか、横になれる店を探して、斎藤を休ませてやんなきゃなあ?」
男はよろめきながら、賑やかな堂島新地の中を、なおも逃げてゆく。
血だらけのその顔を見て、繁華街を行きかう人々は次々と振り返った。
さて、以前にも説明したが、
この堂島新地と曽根崎川(蜆川)を挟んで隣接しているのが曽根崎新地で、この二つの花街を併せて北新地という。
芹沢たちは、男を追って、その曽根崎川に架かる蜆橋までやってきた。
その、橋の中央まで来た時である。
さらにひと周りは大きな力士が、怪我をした男をかばうように、芹沢の前に立ちはだかった。
後ろには数人の付き人を伴っている。
もちろん、彼らも相撲取りである。
芹沢と、その力士は橋の中央でにらみ合った。
平山五郎が、橋で通せんぼをしているその力士を怒鳴りつける。
「おい、邪魔をすんな!そこをどけ!」
「我らは会津中将お預かり、壬生浪士組だあ!」
野口健司が、大音声で名乗りを上げたところへ、
永倉新八がすっ飛んで行ってゲンコツを落とした。
「この大バカ野郎!繁華街でデカい声張り上げやがって!わざわざ人目を引いてどうすんだよ!」




