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幕末カタナ・ガール  作者: 子父澤 緊
角力之章
343/404

袖口の解れ

そのしばらくのち、島原遊郭。


明里天神こと中沢琴は、あわただしく輪違屋わちがいやを出た。

また山南に会う口実ができたことに、少し気持ちがおどるのを抑え込みながら。


桜木太夫に、昨晩のお座敷での粗相そそうたしなめられた琴は、上方かみがたの歌や三味線の稽古けいこを課せられたばかりで、この日は、朝からつきっきりの指導を受ける羽目はめになった。

ようやく輪違屋わちがいやを抜け出せたのは、日も暮れかけた頃である。


お座敷に出る準備の前には、また置屋へ戻らねばならないが、浪士組かれらは今日にも大坂へ発つかもしれないから、先延ばしにすることも出来ない。

それとも、これも自分への言い訳だろうか。

正直、こんなにも早くまた山南と顔を合わせるとは思いもしなかったから、少し気まずいが、「これは仕事なのだ」と島原大門をくぐりながら自分に言い聞かせた。


琴は、置屋のつかいにふみを持たせて、山南を呼び出していた。

使用人を私事わたくしごとに使ったことが楼主ろうしゅにバレれば、またおしかりを受けるが、とにかく時間がなかったので仕方がない。

待ち合わせは、壬生寺の境内けいだいにある雑木林ぞうきばやしである。

山南は先に着いて、林の中にある池のそばで待っていた。

紫陽花あじさいの木が数本、まだ花をつけていて、それをじっと眺めている。


琴は駆け寄って、山南が合羽かっぱ脚絆きゃはんをつけているのを見ると、息を切らしながら尋ねた。

「その恰好かっこうは?」

「今から大坂につんだ」

山南は短く答えた。


「そう。よかった。ギリギリ間に合ったのね」


山南は、琴の上気じょうきする顔を見るうち、彼女が急にいとおしく思えて、軽くそのほおでた。

「ど、どうしたの?急に」

驚いて身を引く琴を見て、山南も気恥きはずかしくなったのか、

「いや、別に。用件を聞こう」

と、ことさら事務的な口調になった。


琴は、昨日の宴席えんせきで聞いた話を手短てみじかに伝えた。

長州の桂小五郎は、浪士組に間諜かんちょうを送り込もうと画策かくさくしている。


楠小十郎くすのきこじゅうろう…」

山南は、その名を反芻はんすうした。

「ええ。結構腕が立つみたいだから、女みたいな見た目に油断しないで」

琴は、楠の特徴的な人相、風体ふうていを付け加えた。


「そうか。わざわざありがとう」

山南は、浮かない表情で、何処どこか気のない礼を述べた。

その態度に妙な空々(そらぞら)しさを感じた琴は、小さく眼をすがめた。

「…驚かないのね」


山南は、しばらくの間、琴の眼をじっと見つめ、それから言いにくそうに切り出した。

「実は、その話なんだが、すでに別の筋から芹沢さんの耳に入っている」

「…どういうこと?」

その意味を頭では理解しながらも、琴はそう聞かずにいられなかった。


つまり、あの場にはもう一人、公武合体派のスパイが居たことになる。


楼主ろうしゅ輪違屋善助わちがいやぜんすけの忠告が、改めて琴の脳裏のうりよみがえった。


もし、あのお座敷にいたのが、敵方てきがた尊王攘夷そんのうじょうい派の間諜スパイで、

もし、同じように自分がその正体に気づけなかったとしたら。

虚偽きょぎの情報をつかまされて、山南の命を危険にさらしていたかもしれない。


自分が、善助ぜんすけ危惧きぐをまったく理解していなかったと思い知った時、

琴は、心底しんそこ背筋せすじこおる思いがした。


「…役に立てなくて、ごめんなさい」

「そんな、もう充分だよ!もう充分だ。君もこんなことからは手を引いてくれ」

蒼ざめた顔であやまる琴に、山南はねぎらいともなぐさめともつかない言葉を口にした。

その言い様に、琴は、どこか引っかかりを覚えた。

「…きみも?」

こんな時にさえかんのいい琴に、山南はなかば飽きれながら、力のない笑みを浮かべる。

「今のは忘れてくれ…私は少し疲れているのかもしれない。浪士組は、今も武士としてあるまじき行いを繰り返している。そして会津からも、ある意味では、それに相応ふさわしい扱いを受けていると言っていいだろう…このところ、時々分からなくなるんだ。いったい、何のために京に来たのか」


琴は水辺みずべに咲く真っ青な紫陽花あじさいに目を落としながら、ポツリポツリと気持ちを伝えた。

「…手を引きたいと言うなら、私はむしろうれしいくらい。もう山南さんの身を案じなくていいなら、それに越したことはないと思ってる…けど、近藤さんや土方さんはどうなの?」

「どういう意味です?」

「あの二人は、まだあきらめてないんじゃないですか?だとしたら、山南さんだけが、ここでめてしまって、後にいは残らないんですか?」


山南は、しばらく目を閉じて自問し、それから顔をあげた。

「…そうだな。その通りだ」

苦悶くもんと、何かの決意を秘めたその眼を見て、琴は抑えがたい衝動しょうどうに駆られ、その胸に顔をうずめた。

「…うそです、今のは。貴方あなたあおるようなことを言ったのは、私の本心じゃない」

山南は琴を抱きしめ、その腕に力を込めて、しばらくじっと立ち尽くした。


「…ここ…」

山南の腕の中で、聞き取れないほどの小さな声で琴がつぶやいた。

「え?」

琴は山南の合わせの袖口そでぐちに触れながら、顔を上げた。

「…また糸がほつれてる…」


山南は微笑みながら、琴の身体をそっと離した。

「行きます」

琴は無言のまま、問いかけるように山南を見つめた。


「大坂へ行かなきゃならない。…ありがとう」


山南は本堂の方へと戻る道を数歩行ってから、クヌギの木に手をかけて振り返った。

「これ、このそで。戻ったら、また手の空いた時にでもつくろってください」


「ええ。いってらっしゃい」

琴は悲しげにうなずいた。

次に会えるのは、何時(いつ)になるのだろう。

名残惜しいその背中を目で追う。

せめて、あの門を出て、通りを曲がり、その後ろ姿が見えなくなるまで。


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