袖口の解れ
そのしばらくのち、島原遊郭。
明里天神こと中沢琴は、あわただしく輪違屋を出た。
また山南に会う口実ができたことに、少し気持ちが躍るのを抑え込みながら。
桜木太夫に、昨晩のお座敷での粗相を嗜められた琴は、上方の歌や三味線の稽古を課せられたばかりで、この日は、朝からつきっきりの指導を受ける羽目になった。
ようやく輪違屋を抜け出せたのは、日も暮れかけた頃である。
お座敷に出る準備の前には、また置屋へ戻らねばならないが、浪士組は今日にも大坂へ発つかもしれないから、先延ばしにすることも出来ない。
それとも、これも自分への言い訳だろうか。
正直、こんなにも早くまた山南と顔を合わせるとは思いもしなかったから、少し気まずいが、「これは仕事なのだ」と島原大門をくぐりながら自分に言い聞かせた。
琴は、置屋の遣いに文を持たせて、山南を呼び出していた。
使用人を私事に使ったことが楼主にバレれば、またお叱りを受けるが、とにかく時間がなかったので仕方がない。
待ち合わせは、壬生寺の境内にある雑木林である。
山南は先に着いて、林の中にある池のそばで待っていた。
紫陽花の木が数本、まだ花をつけていて、それをじっと眺めている。
琴は駆け寄って、山南が合羽と脚絆をつけているのを見ると、息を切らしながら尋ねた。
「その恰好は?」
「今から大坂に発つんだ」
山南は短く答えた。
「そう。よかった。ギリギリ間に合ったのね」
山南は、琴の上気する顔を見るうち、彼女が急に愛おしく思えて、軽くその頬を撫でた。
「ど、どうしたの?急に」
驚いて身を引く琴を見て、山南も気恥ずかしくなったのか、
「いや、別に。用件を聞こう」
と、ことさら事務的な口調になった。
琴は、昨日の宴席で聞いた話を手短に伝えた。
長州の桂小五郎は、浪士組に間諜を送り込もうと画策している。
「楠小十郎…」
山南は、その名を反芻した。
「ええ。結構腕が立つみたいだから、女みたいな見た目に油断しないで」
琴は、楠の特徴的な人相、風体を付け加えた。
「そうか。わざわざありがとう」
山南は、浮かない表情で、何処か気のない礼を述べた。
その態度に妙な空々しさを感じた琴は、小さく眼をすがめた。
「…驚かないのね」
山南は、しばらくの間、琴の眼をじっと見つめ、それから言いにくそうに切り出した。
「実は、その話なんだが、すでに別の筋から芹沢さんの耳に入っている」
「…どういうこと?」
その意味を頭では理解しながらも、琴はそう聞かずにいられなかった。
つまり、あの場にはもう一人、公武合体派のスパイが居たことになる。
楼主輪違屋善助の忠告が、改めて琴の脳裏に蘇った。
もし、あのお座敷にいたのが、敵方、尊王攘夷派の間諜で、
もし、同じように自分がその正体に気づけなかったとしたら。
虚偽の情報をつかまされて、山南の命を危険に晒していたかもしれない。
自分が、善助の危惧をまったく理解していなかったと思い知った時、
琴は、心底背筋の凍る思いがした。
「…役に立てなくて、ごめんなさい」
「そんな、もう充分だよ!もう充分だ。君もこんなことからは手を引いてくれ」
蒼ざめた顔で謝る琴に、山南は労いとも慰めともつかない言葉を口にした。
その言い様に、琴は、どこか引っかかりを覚えた。
「…きみも?」
こんな時にさえ勘のいい琴に、山南は半ば飽きれながら、力のない笑みを浮かべる。
「今のは忘れてくれ…私は少し疲れているのかもしれない。浪士組は、今も武士としてあるまじき行いを繰り返している。そして会津からも、ある意味では、それに相応しい扱いを受けていると言っていいだろう…このところ、時々分からなくなるんだ。いったい、何のために京に来たのか」
琴は水辺に咲く真っ青な紫陽花に目を落としながら、ポツリポツリと気持ちを伝えた。
「…手を引きたいと言うなら、私はむしろ嬉しいくらい。もう山南さんの身を案じなくていいなら、それに越したことはないと思ってる…けど、近藤さんや土方さんはどうなの?」
「どういう意味です?」
「あの二人は、まだ諦めてないんじゃないですか?だとしたら、山南さんだけが、ここで止めてしまって、後に悔いは残らないんですか?」
山南は、しばらく目を閉じて自問し、それから顔をあげた。
「…そうだな。その通りだ」
苦悶と、何かの決意を秘めたその眼を見て、琴は抑えがたい衝動に駆られ、その胸に顔を埋めた。
「…嘘です、今のは。貴方を煽るようなことを言ったのは、私の本心じゃない」
山南は琴を抱きしめ、その腕に力を込めて、しばらくじっと立ち尽くした。
「…ここ…」
山南の腕の中で、聞き取れないほどの小さな声で琴が呟いた。
「え?」
琴は山南の合わせの袖口に触れながら、顔を上げた。
「…また糸が解れてる…」
山南は微笑みながら、琴の身体をそっと離した。
「行きます」
琴は無言のまま、問いかけるように山南を見つめた。
「大坂へ行かなきゃならない。…ありがとう」
山南は本堂の方へと戻る道を数歩行ってから、クヌギの木に手をかけて振り返った。
「これ、この袖。戻ったら、また手の空いた時にでも繕ってください」
「ええ。いってらっしゃい」
琴は悲しげにうなずいた。
次に会えるのは、何時になるのだろう。
名残惜しいその背中を目で追う。
せめて、あの門を出て、通りを曲がり、その後ろ姿が見えなくなるまで。




