梅の麩の焼き、秘密を添えて 其之壱
文久三年六月二日、
昼の八ツ(2:00PM)。
壬生村、前川邸、近藤勇の居室。
「うん、美味いな」
近藤は、麩の焼き(お茶菓子の一種)をつまみながら、しきりに感心していた。
まさか、南船場の貧乏道場で、「試衛館と浪士組の両方を乗っ取ってやろう」という恐ろしい企みが進行しているなど、夢にも思っていない。
しかし、まあそれはどうでもいいだろう。
余談だが、江戸時代も元禄の頃(近藤たちの時代から160年くらい前)までは、1日2回の食事が普通だったため、昼の八つ時に小腹を満たすための軽食を採る慣習があって、それを「お八つ」と呼ぶようになったらしい。
土方歳三は、ふたつ目の麩の焼きに手をつける近藤を横目で見ながら、縁側で足の爪を切っている。
「風が生暖けえな。台風でもくんのかね?」
土方は、和ばさみ(この時代の爪切り)をパチンとやりながら、空を見上げた。
「他人がモノを食ってる横で足の爪なんか切るなよ」
近藤が嫌な顔をして不平を言った。
「うるせえな。一回気になりだしたら、すぐ切らねえと収まんねえんだよ」
「んじゃ、自分の部屋で切れ」
「いいだろ!だから縁側で切ってんじゃねえか」
「まったく…」
そんなくだらない話をしているところへ、目の前の庭先に山南敬介が通りかかった。
山南は、合わせの黒羽二重の袖口がまた擦り切れているのを気にして、こちらに気づいていない。
土方は、意地悪そうな笑みを浮かべて山南を呼び止めた。
「よう、山南さん。昨日の逢引きは首尾よくいったかい?」
その時初めて二人が目に入った山南は、向きを変えてゆっくり近づいて来ながら、肩をすくめた。
「やれやれ、これで山南さんも羽根を休める場所が出来たわけか」
今や事情を知る近藤も、一緒になって冷やかしたが、
「山南さんは見かけによらず押しが強いからな。何処ぞで一度会ったきりの妾が未だに忘れられない純情な誰かさんとは違うんだよ」
と土方に横槍を入れられて、渋い顔をした。
山南は苦笑いしながら、
「どうやら藪ヘビのようですね、近藤さん。しかし、揚屋で飲む金なんか持たないのは、二人が一番よく知ってるでしょう?門のところで立ち話しただけです」
と土方の予想をやんわり訂正した。
「今回のは仕事なんだから、言ってくれりゃ隊費を出してやったぜ?」
土方はなおも揶揄ったが、もう山南は乗ってこなかった。
「どうかな。ほとんど使えそうな情報はなかったから、仕事と呼べるかどうか」
「なんだ、そうなのか?」
山南は小さく首を振って嘆いて見せると、近藤の前にある小洒落た清水焼の皿に目を留めた。
「珍しいものを食べてますね。甘いのは苦手かと」
「お梅さんが作った茶菓子のお裾分けでね、なかなかイケますよ。おひとつ、どうです?」
山南は近藤に勧められるまま、ひと切れ摘まみ上げると、その茶菓子をしげしげ眺めた。
薄い生地で何かを巻いた筒状の形をしている。
「お梅さんは、何の気まぐれでこんなものを差し入れてくれたんです?」
「菓子はオマケだよ。皿にこんなものが添えられてた」
土方が折りたたまれた紙を山南に差し出した。
「手紙?」
山南は、琴から手渡された書付の裏を思い出して、少し表情を曇らせたが、
開いてみると、そこには女の文字で、近く浪士組に長州のスパイが送り込まれてくるらしいという情報がしたためられていた
「…これは…ここに書いてあることは、本当ですか?」
顔をあげて、疑わし気に土方を見やる。
「さあな。だとしたら、芹沢派は優秀な間者を雇っているらしい」
土方が琴に当てこすると、山南はムッとして言い返した。
「結構な話じゃないか。だいたい、彼女をこんな際どい話に関わらせたくない」
「あの女は、そんな玉じゃないよ。分かってないねえ、山南先生」
「ふん、だが、こちらもひとつ。小笠原様がついに大坂入りしたという話を仕入れてきましたよ」
土方の目つきが急に鋭くなった。
「おいでなすったか。このまま京に上ってくると思うか?」
「どうだろう。無論、小笠原様はそのつもりでしょうが、お上が許すとは…」
声を潜めて話し込む二人を眺めながら、近藤は小首をかしげた。
この二人は、いったい仲がいいのか悪いのか、どうもよく分からない。
「やっぱ、大樹公(将軍)を取り返しに来たんスかねえ?」
隊士たちをぞろぞろ引き連れて巡察から帰ってきた藤堂平助が口を挟んできた。
その後ろには、新しい幹部の松原忠治、尾形俊太郎、安藤早太郎らの顔も見える。
「おう、平助、お疲れさん。盗み聴きはよくないぞ」
近藤が大きな口を吊り上げてニッと笑い、手をあげて皆を出迎えた。
「なんスか、それ?」
藤堂は、縁側に膝這いで上がり込むと、麩の焼きの載っている皿を覗き込んだ。
近藤は皆のいる縁側の方へ、菓子の皿を押しやった。
「食えよ。大樹公の件は、こないだ連名で出した板倉様宛の上申書に、我らの考えをすべて書いた。お前も読んだはずだ」
「言いたいことは分かりますがね。つまり、やれることは、やった?」
「そうだ。人事を尽くして天命を待つ、さ」
近藤はそう言って麩の焼きをひとつ、藤堂の掌に置いた。
藤堂は、一瞬躊躇して、近くにいた土方に助けを求めた。
「コレ、美味いんスか?」
土方は渋い顔をして、手を払った。
「ちぇ、お梅の作ったもんなんか、食えるかよ。毒が入ってても知らねえからな」
藤堂はあきらめて、それを恐る恐る口に運んだが、すぐに感激して目を輝かせた。
「ウメえ!こんな美味いもん食ったことねえ!」
麩の焼きは、千利休が愛したと言われる茶菓子で、西京味噌の餡に胡桃を砕いたものを混ぜて小麦粉の生地で巻いた、云わば江戸時代のクレープである。
土方は、冷ややかな目で藤堂を眺めながら、またパチンと爪を切った。
「あの女が、そんな気の利いたもん作れるとはねえ…ま、それはさておき、老中も今回ばかりは手ぶらで帰るほかないだろうさ」




