花街の諜報戦 其之伍
陽気な歌で、ようやく宴会もそれらしくなってきた。
「明里、明里」
はしゃぐ杉山に名前を呼ばれ、琴も付き合おうと腰を浮かしたが、
楠小十郎にグイと腕を引き戻された。
「ここにいて、俺の酌をしろ」
杉山の顔が見る見る真っ赤になって、楠に喰ってかかろうとするのを、中村道太郎が押しとどめた。
「ほらほら、お前の番だぞ」
楠は、杉山を一瞥して、
小馬鹿にするように「ふん」と鼻を鳴らした。
彼は、ここまでずっと押し黙ったまま、みなの話を聞きながら酒を舐めている。
琴は楠が空けた盃を満たしながら水を向けてみた。
「皆さんとお喋りはなさらないの?ずいぶん無口でいらっしゃるんですね」
楠は冷たい目で琴を流し見て、
「俺が喋っていいと言ったか?騒がしいのは嫌いだ」
と、一息に杯を飲み干した。
また雲行きが怪しくなってきたので、気を利かせた桂が楠に酒を注ぎに来た。
それだけの事が、桂の人物の大きさを伺わせる。
「楽しんでいるか?」
「どうですかね。本音を言えば、高杉さんたちと下関で舟遊びがしたかった」
楠がムッツリと応えた。
「…高杉や久坂たちは、事を急ぎ過ぎている」
桂は一連の武力衝突に、批判的な立場をとっていた。
「ずいぶんと弱腰ですな」
「本当にそう思うか?近いうち、長州は敵との力の開きを思い知るだろう。我々は諸外国とどう向き合うべきか、今一度、根本から考え直す必要に迫られる」
事実、この後の長州の一連の動きを見れば、桂の予言は正しかったと言える。
ただ、列強諸国にボロ負けしたことで、彼らは、余計に「このままではダメだ」という強迫観念にも似た倒幕思想に憑りつかれた。
そのとき、赤ら顔をした寺島が二人の会話に割って入り、楠の手を引いた。
「ほれほれ、楠、お主も仏頂面で天神を独り占めしとらんで、仲間に入らんか!」
彼は彼で、なんとか場をなごませようと、気を使っているらしい。
楠は掴まれた腕に頓着せず、まっすぐ桂の眼を見つめ返した
「今さら日和る気なら、桂さん、まずあんたから斬る」
琴は二人の物騒なやり取りに息をのんだ。
今の台詞が、他の者に聞かれればただ事では済まないだろう。
「おまえ…なにを言ってる…」
寺島は、反射的に壁に目をやり、立てかけた差料(刀)に手が届くまでの距離を目測った。
しかし桂は、寺島に目配せして小さく首を振り(大丈夫だ)と意思表示すると、あくまでも静かに、楠の疑問に応えた。
「私は順番の話をしている。端的に言えば、今のままでは火力の差がありすぎるということだ。だが、それ以前に、まずは入念な根回しが必要だ。事を成すには、宮中はもちろん、世間を味方につけねばならん」
寺島は、この張り詰めた緊張感から気を逸らせようと、少し話の矛先を変えてみた。
「先代の島津公は、以前からイギリスやアメリカに倣った武器の製造に着手していたと聞き及びます。今となっては、例の岩吉の手引きで薩摩に渡りをつけられなかったのが悔やまれますな」
しかし、これは余計な差し出口だったらしい。
「過ぎたことだ」
桂は「滅多なことを口にするな」という顔で、寺島を睨みつけた。
琴は、かつて、岩吉、すなわち岩倉具視が、桂に送ったメッセージを思い出した。
「道を急ご思たら、まずは駿馬を手に入れるのが先決やからな。けど、馬を御するには手綱を捌く道具が要るちゅうこっちゃ」
やはり「駿馬」とは「薩軍」を指し、
「ハミをとる轡」は、その軍隊を掌握する薩摩のキーマン、すなわち小寅の愛人のことを言っているのだ。
少なくとも、桂はそのように解釈している。
桂は、警戒するように周囲を伺って、琴に目を止めた。
「この女性とは初会だな」
まるで心の奥にある秘密を見透かすように、じっと琴の瞳を見据える。
琴は、いま、何が論じられているのか、まったく理解していない態で、無関心を装った。
そもそも、ここにいる遊女たちのほとんどにとって、攘夷志士の話す言葉は難解すぎて掴みどころがなく、
多少政治の話題に通じた者であっても、戦好きの野蛮人が虚仮威しの大言を吐いていると本気にしなかっただろう。
例外がいるとすれば、それは、例えば琴や、桂の愛人幾松のように、もはやこの狂騒劇に捕り込まれた劇中の人物だった。
「明里と申します。どうぞ、よろしくお願いいたします」
琴は、自分に与えられた役を演じきって、静々と頭を下げた。
「なんと美しい天神だ」
桂は眼を細めた。
が、その賛美は、どこか形式的で、感情がこもっていない。
翻って、志士たちの側から見た大部分の遊女は、良く言ってもリベラルな保守派、
もっとハッキリ言えば、頭が固く、無知な平和主義者に過ぎなかった。
なかでも彼、桂小五郎は、彩色兼備の女性を好む傾向があった。
琴は、清河八郎から散々高慢ちきな持論を聴かされたおかげで、彼らの言説がある程度理解できたが、
それでも桂たちの語る理想は、突拍子もなさ過ぎてピンとこないというか、あまりに現実離れしているように思えた。
そうした意味では、同時代の娘たちの感覚と、さほど大きな開きはなかったと言える。
もっとも、社会的に何ら権利を与えられていないこの時代の女性が、政論についてどう思おうが、それ自体は然したる意味を持たない。
しかし、それを聞いた彼女たちが、信条に従って「どう行動を起こすか」は別である。
現に、薩摩の連絡係をしていた小寅や、
寺田屋で志士を支援している登勢など、
琴をこの場所へ導いたのも、そういう女たちの力に依るところが少なくなかった。




