花街の諜報戦 其之肆
桂が来ないのなら、こんな宴会など苦痛なだけだ。
琴は、この様子を山南が見たら焼き餅を焼いてくれるだろうかなどと、他愛もないことを考えながら、ただ時が過ぎるのを待った。
正直、この二人なら造作もなく組み伏せることもできたが、さすがにこの場では桜木太夫の顔を立てねばならない。
「二人ともよさないか。大人気ない」
山縣小輔が、二人を諌めた。
後に我が国の第三代内閣総理大臣に納まるこの人物は、権力欲、金銭欲ともに旺盛だったが、女性に関してだけは淡白だったと伝わっている。
しかし、琴を挟んだ杉山と松井の鍔迫り合いは止まる気配がない。
「お前に女を口説くような甲斐性があるのか!」
「あんたこそ、桂さんの後ろを金魚のフンのようにくっついて廻って、おこぼれに預かっとるだけやないか!それで一人前の男と言えるか!」
意外なことに琴を救ったのは、例の「女形」だった。
いきなり立ち上がると、ズカズカと三人に歩み寄り、杉山と松井が呆気に取られているのを余所に、琴の手首を掴んだ。
「俺はこの女が気に入った、今日からお前は俺の女だ」
「え?」
琴は目を丸くして、女形に手を引かれるまま立ち上がった。
「なんだと!」
図らずも、杉山と松井が揃って声を荒げた。
女形は間近に引き寄せた琴の眼を見つめたまま、
「聞こえなかったか?勝手にこの女を口説くことは許さん」
その端麗な容姿に似つかわしくない、厳しい口調で二人に命じた。
「楠、きさま、痛い目に会いたくなければ引っ込んでろ!」
杉山が刀に手を伸ばす。
「おもしろい。俺はこれまでに二人斬った。三人目は毛唐どもと決めていたが、一つ二つ順番がズレるかもしれんな」
「女形」の名は楠小十郎、地元京の浪士で、破約攘夷という強硬論に同調して長州と手を組んでいた。
「難儀どすなあ。明里ゆうたら、アラクタから引くて数多どすがな。うち、凛気してまうわ」
桜木が冗談めかしてその場を収めようとしたが、喧嘩はますますヒートアップするばかりである。
「新参者が生意気な口を叩くな!」
「桂さんに気に入られているからって、いい気になるなよ!」
楠は挑みかかるように二人へ詰め寄り、
「…いいか?俺に命令するな。攘夷の志を同じくすると信じて同志に加わったが、俺はお前たちの部下じゃない」
そう凄み、鋭い眼光で二人を黙らせた。
女のような顔をしているが、おそらくは相当の手練れなのだろう。
皆から一目置かれている様子が伺える。
しかし、
「新入り、そんなハッタリで我々が怯むとでも思ったか」
関係ないはずの山縣が箸をおいて、楠を睨めあげた。
彼は根っからの武人で、武士の対面を汚されることを何より嫌った。
こうなると、もはや収拾がつきそうにない。
そのとき、
「山縣くん、こんな処で無粋はよさないか」
身なりのいい若い侍が座敷に入ってきて、山縣の肩を軽く叩き、すっと上座についた。
「桂先生」
山縣は、直立不動の姿勢を取った。
それは、琴が紀伊国屋で見かけた、もう一人の男に間違いなかった。
「遅れてすまない」
なにか、この場にそぐわないほど、柔らかく心地のいい声だ。
琴は、男をあらためてしげしげと眺めた。
桂小五郎。
まだ若く、書生然とした端正な顔立ちといい、上品な物腰といい、
とても長州の過激な志士たちを、取りまとめている風には見えない。
しかし、
「桂という人物は、その物静かな佇まいからは想像もつかない剣豪だ」
そんなことを言っていたのは、近藤勇だったか、山南敬介だったか。
天然理心流試衛館は、桂が塾頭を務めていた練兵館道場から、江戸城の外堀を隔ててわずか四半刻に満たない距離にあって、まだ山南敬介らが江戸にいた頃は互いに交流があった
試衛館に他流試合の申し出があった時などは、近藤が錬兵館に助っ人を頼んだことさえあるくらいだ。
それが、今や京で敵味方に分かれて争っているのだから、運命というものの不思議を感じずにはいられない。
「寺島、どうにも、風当たりが強くていかんな」
桂がボソリと囁いた。
「これは、気のつかんことで。堪忍どす」
耳ざとい女中が窓を閉めようとするのを、桂は手で制した。
「いや、いいんだ」
どうやら、暗に馬関海峡封鎖後の長州の政治的立場を嘆いたらしい。
「話の腰を折ってしまったかな。仕切りなおそう」
その一言で、皆が大人しく腰を下ろす。
桂は、あっという間に騒動を収めてしまった。
しかし、楠はそのまま琴の手を引っ張って、自分の席まで連れて行ってしまった。
「明里とやら、おまえはここに座れ」
末席に座らされた男がいきなり天神を侍らせるなど、礼儀を欠いた態度だ。
これには、杉山、松井ばかりでなく、志士たち全員が楠を睨みつけたが、桂の手前、口に出して非難する者はいない。
「ありがとうございます」
ひょっとして、助けてくれたのだろうか?
そう思った琴は、一応礼を述べたが、楠は押し黙ったまま返事もしない。
桂の盃が満たされたところで、
長州藩士たちは、金毘羅船船というお座敷遊びを始めた。
反射神経を競うゲームで、負ければ盃を飲み干さなければならない。
♪金毘羅船々(こんぴらふねふね)
追風に帆かけて
シュラシュシュシュ
まわれば 四国は
讃州
那珂の郡
象頭山
金毘羅大権現
一度まわれば




