花街の諜報戦 其之弐
「明里」
琴が輪違屋に戻ると、鏡台の前で化粧をしていた桜木大夫が、鏡越しに声をかけてきた。
「はい」
「ちょっと話があるんやけど、よろしか?」
この桜木太夫こそ、琴がこの置屋を選んだ理由だった。
彼女は長州の祐筆、桂小五郎の馴染みで、攘夷派の情報に通じていると噂されている。
その名の通り、優美で気品のある美しさをまとった女性で、輪違屋では花香太夫と好対照を成す、もう一方の大輪の華である。
今日の琴は、山南との逢引きも消化不良に終わって、気分が塞いでいたから、少し救われた気分になった。
花君太夫と一之天神の禁断の関係を目撃したあの日、琴自身も花香に誘惑されて、
それ以来、まともに彼女たちの目を見て話すことが出来なくなったので、
輪違屋では、なんとなく居場所がなかった。
桜木太夫は以前から琴を気にかけていたから、そんな異変に気づいたのかもしれない。
ここのところ、よく話しかけてくるようになった。
穿った見方をすれば、琴が花香太夫、花君太夫ら「公武合体派」と距離を置いているのに目敏く気づいて、近づいてきたのかもしれなかった。
「今日のお座敷なんやけど、あんた、身体が空いてるんやったら、ちょっと手伝うてくれへんか」
「わたし?」
「あんたも売れっ子になってしもたさかい、忙しかったら無理にとは言わへんけど、長州屋敷の方が仰山みえはるし、あんたみたいな綺麗どころが居ったら助かる」
角屋のような揚屋には、天神以上の芸妓しか上がれないことになっているから、自ずと声をかける相手も限られてくる。
このオファーには、明里天神の「集客力」を見込んで、攘夷派に取り込こもうという意図も見え隠れしていた。
しかし、このチャンスを逃す手はない。
「無理なんて、そんな。ぜひご一緒させてください」
「そうか。ほな、お願いしようかしら」
「長州というと、太夫の馴染みの旦那様ですね」
桜木は琴に向き直ってニッコリ笑った。
しかし、その眼の奥には、普段見せないような警戒心が潜んでいるようにも見える。
桂の名前を引き出そうとしたのは、少し踏み込みすぎたかもしれない。
「そや。長州の祐筆、桂小五郎先生どす。先生は、お話も面白おすえ?あんたにとっても、ええ勉強になる思うわ」
桜木最大の誤算は、一度取り込んでしまえば、琴の信条をいわゆる勤王芸者に塗り替えることなど容易いと見くびっていたことかも知れない。
しかし彼女は、あの清河八郎ですら、中沢琴を飼い慣らせなかった事実を知らなかった。
「ぜひ」
琴は、気が逸るのを抑えて、それだけ答えた。
「ほな、早よ支度しい」
「あの、太夫。ありがとうございます」
「ええんよ。その代わり、酒席で見聞きしたことは他言無用え?」
桜木は脅して釘を刺すのも忘れなかった。
「もちろん、廓の習いは心得ています」
以前、北新地の紀伊国屋で女中の小寅から聞いた話によれば、
桂小五郎は、薩摩に伝言を残したという。
「連絡を待ってるて。島原の輪違屋にいる桜木太夫に手紙くれたらええからて」
小寅はそう言っていた。
琴の知る限り、彼らが接触した形跡はまだなかったが、少なくとも桜木と桂がつながっていることは間違いなさそうだ。
「つい先に、三条河原で可寿江ゆう女が裸で晒されたんは知っといやすか?」
「ええ、聴いたことは。ひところは祇園で人気の芸妓だったとか」
「ほんなら、彼女が何をしたんかも、聞いたはるなあ?」
村山可寿江こと村山たかは、安政の大獄時代に幕府の間諜として暗躍した女性で、元芸妓という経歴から花柳界の人脈を生かし、様々な工作活動に関わったとされている。
一説には先の大老井伊直弼の情婦といい、彼の政敵を次々と刑場送りにしたという。
「え、ええ」
琴は、不自然でない程度に怯えた振りをして見せた。
「ほんなら、よろしおす」
琴は一人になると、思わず拳を握りしめ、
「ついにきた」
口に出してから、さきほど山南が同じセリフを吐いたのを思い出して、独り苦笑した。
「今日は他のお座敷からのお誘いがあっても断って」
琴は禿を呼んで言いつけた。
しかし、その様子を見咎めた輪違屋主人、善助が琴の肩を叩いた。
「明里、来なはれ」




