南堀江の兄弟 其之壱
文久三年六月一日。
米軍艦ワイオミングが、下関を急襲した、その同じ日の夜。
大坂、南堀江。
六つ半(7:00pm)。
阿部慎蔵は、槍術の師、谷万太郎のボロ道場を訪ねた。
石塚岩雄との交渉で無茶な返済計画を押し付けられた手前、この道場の資金繰りについて、わずかでも返済の目処がついているのか「一応」「念のため」「無駄だとは思うが」確認する必要があったからである。
「こんちは~!」
玄関から声を掛け、しばらく待ったが返事がない。
勝手に上がり込むと、相変わらず閑散とした薄暗い道場の奥、畳敷きの一画に、三つの人影が見えた。
三人は輪になって座っていて、阿部はその顔を確かめようと、藪睨みで、ソロソロ近づいて行った。
「なんだ、今日は兄弟きりかよ。とうとう最後の弟子にも愛想つかされたか」
阿部は、気が抜けたように肩を落とした。
そこに居たのは、道場主の谷万太郎と、その兄三十郎、そして弟の千三郎だった。
「アホ、もう夜やけ、皆帰りよったんじゃ」
万太郎が、あいかわらずノホホンとした調子で、阿部の皮肉を受け流した。
「おい、兄上の弟子。口の利き方に気をつけろ」
不遜に言い放ったのは、生意気そうな小太りの少年で、末弟の千三郎だった。
まだ元服して間もない15歳である。
「このマセガキが、俺はてめえの弟子じゃねえぞ。てめえこそ、口の利き方に気をつけやがれ!」
阿部は叱りつけたが、千三郎はとり澄まして、
「短気な奴だ。いいからここに来て座れ」
と傍らの畳をポンポンと叩いた。
「ちぇ、ガキ相手にカッカしてもしょうがねえ。なんだ?道場をたたむ相談か?」
阿部が胡坐をかき、憎まれ口を叩くと、千三郎は、まるで年下の子供に言って聞かせるように目を閉じて腕を組んだ。
「小笠原長行様が、物々しい軍勢を伴って上方に上陸したのだ」
「なんだ、めずらしくもねえ。今日は町中、その噂で持ち切りだぜ」
この日の夕方、江戸幕府の老中小笠原長行の指揮する蒸気船幡龍が、朝陽、鯉魚門の二隻を引き連れ天保山に着岸し、船倉から大量の武装した兵士を吐き出すと、港は一時騒然となった。
軍勢はそのまま淀川沿いに、大坂城をかすめ、枚方方面へ向かったから、市中の大勢の人々が行列を目撃することになり、夜には大坂中で知らぬ者はなかった。
「いよいよ世情も騒がしくなってきたからな。これから三十郎兄さまが、おまえのようなアホにも分かるように世の趨勢を説いてくださる」
長兄三十郎が、阿部に向かって、無言のままエラそうにうなずいて見せた。
この兄にして、この弟ありである。
門下生だった頃から、この兄弟の態度は、いちいち阿部の神経を逆なでした。
「阿部、謹んで拝聴したまえ。お前にどこまで理解できるかは分からんが」
相変わらず見下した態度の千三郎に、阿部もとうとう業を煮やして、
「あーハラたつ!」
と、握りしめた拳の節を、グリグリこめかみに押し付けた。
「イタイイタイイタイイタイ!分かった分かった分かった!分かったから!謝るから!」
「しばらく見ねえうちに随分ヒネこびた育ち方しやがって。大人に対する礼儀ってもんを躾けてやる。感謝しろよ」
鼻息も荒く、手を離すと、千三郎はこめかみのあたりを摩りながら、恨みがましく阿部を睨みつけた。
「やれやれ……冗談の通じないヤツだ」
「さて」
まったく反省の色が見えない千三郎を他所に、長兄の三十郎が、例のごとく知ったかぶって時世を語り始めた。
「弟の言う通り、時はまさに乱世。先日、下関で長州軍がアメリカ、イギリス、フランスを相手に大砲をぶっ放し、戦端を開いたばかりだというのに、一方では、件の老中殿が、生麦(事件)の非を認める形で、イギリスに弁済金を支払う始末だ」
「このままでは、我が国は二枚舌外交の謗りを免れませんな」
千三郎が、調子よく間の手を入れる。
「そのとーり。ご公儀と、朝廷に紐づく攘夷派の雄藩、今となってはお互い引くに引けない立場に追い込まれ、老中殿の出方によっては、一触即発の事態に陥りかねん」
おそらく、新町の廓辺りで仕入れてきた知識だろうか。
しかし、事実件の老中小笠原長行は、開国策こそ「富国利民の道」というのが一貫した持論で、今回、帝への謝罪という表向きの用件とは別に、開国派に寝返った(と疑われる)姉小路公知との密議を画策していたという噂も、実しやかに囁かれている。
これについては姉小路の謀殺により、真偽定かならぬまま立ち消えとなったものの、
「武力に訴えて、将軍家茂公を江戸に連れ帰るつもりではないか」
などという物騒な憶測が依然飛び交っており、このまま彼の軍勢が京に上れば、ただで済むはずがなかった。




