流転の浪士 其之壱
さて、ここに至って、小笠原長行の動向が世間の耳目を集めることとなり、自然、舞台の中心は大坂へと移る。
そうなると、行きがかり上、大坂にいる阿部何某の方に、目を向けないわけにいかないだろう。
なので、気は進まないが、出羽国亀田藩脱藩浪士、阿部慎蔵が、これまでにくぐり抜けてきた冒険の最後の方だけを簡単におさらいしておきたい。
宝蔵院槍術谷万太郎道場の借金返済に奔走していた阿部は、“親友”中沢琴に協力を仰ぎ、質の悪い借金取りを道場から遠ざける(追い払う)算段をしていた。
しかし、計画はどんどん脱線して、その過程で、なぜか浪士組隊士家里次郎の脱走騒ぎに巻き込まれてしまう。
おかげで、心配していた借金の取り立ては一旦ウヤムヤになったものの、阿部は相棒の中沢琴ともそのままはぐれてしまったのだった。
以上
そして、
家里次郎の逃避行が悲劇的な結末を迎え、ひと月余りが経った。
しばらくは借金取りから身を隠していた阿部も、そろそろ余熱が冷めた頃かと暗い穴蔵から這い出る決心をした。
穴蔵というのはもちろん、モノの例えで、日本橋の南、長町にある木賃宿の一室である。
ところが、 阿部を追いかけ回していた借金取り、石塚岩雄の方でも、やはり同じように頃合いを見計らっていたらしく、滑稽にも同じようなタイミングで接触を図ってきた。
「クソ!どうやって此処を嗅ぎつけやがった!」
阿部は、年老いた宿の女主人が届けた石塚からの手紙にチラリと目を通すと、すぐビリビリに破いて窓からまき散らした。
この借金取りというのが、当節流行りの不逞浪士を絵に描いたような男で、
荒っぽい取り立てはもちろん、用心棒の真似事や、人買いといった際どい仕事ばかりを好んで生業にしている。
ときには一線を越えて、非合法な仕事に手を染めることもいとわず、目下は、「天下浪士」を名乗るニセ治安部隊を結成、押し借りを組織化して、効率的に荒稼ぎしていた。
これは、皮肉にも例の家里次郎が発案した隊士募集計画に着想を得た手口だった。
「おう、何さらしとんじゃ、コラ!」
突然、窓の外から粗野な怒鳴り声が聞こえた。
なにごとかと階下を覗いてみると、宿の玄関先で、細切れに破いた紙クズを頭からかぶった浪士が二人、こちらを睨みつけている。
「あ、俺?俺に怒ってんの?」
阿部には、二人の顔に見覚えがあった。
昨晩、隣の部屋に泊まって、夜遅くまで酒を飲んで騒いでいた連中だ。
「おう、おまえか?他人のドタマにゴミクズぶち撒けくさって!ボケが!」
阿部は、額に青筋を立てて口汚く罵る浪士が、なにやら滑稽に見えて、
「失礼!だが、あんたら『三人吉三、本郷火の見櫓の場』てな風情で、なかなか悪くない感じだぜ?」
人気役者の市川小團次と岩井粂三郎(岩井紫若)が紙吹雪を浴びる場面になぞらえて、揶揄った。
「なんやと!クソが!今日は先を急ぐさけ、見逃したるが、今度会うたら目ん玉エグったるど!覚えとれよ~!」
人相の悪い二人組は、見た目通り品のない捨て台詞を吐くと、肩をそびやかして立ち去って行った。
「けっ、一昨日きやがれ!高島屋!」
ヤケクソ気味の阿部は、歌舞伎の大向こうを気取り、その後ろ姿に罵声を浴びせた。
「さてと」
阿部は、捨ててしまった手紙の内容を思い返した。
たしか、石蔵屋というぜんざいの店が待ち合わせ場所に指定されていたはずだ。
阿部のいる安宿街から、道頓堀川に沿って10町(1.1Km)ほど北に行ったところである。
「やれやれ、こいつぁ春から 縁起がいいわい」
皮肉を込めて件の演目の名台詞を口にしながら支度を済ませると、重い足を引きずって宿を出た。
大坂の地理には明るいので、近道を選んだのはいいが、そうすると途中で高津新地という岡場所(私娼街)を抜ける必要がある。
ムシャクシャしていた阿部は、後ろ髪を引かれる思いだったが、懐には、とても女遊びができる余裕はない。
「あーあ。お琴の奴はどっか行っちまったし」
思わずため息が出た。
前回の呼び出しでは、借金を盾に、阿部のことも裏稼業に引き込もうとしたくらいだから、どうせロクな話にならないのは目に見えている。
仕方なく、岡場所の門を出たところにある干菓子の店で岩粔籹を買って、バリバリかみ砕きながら気を紛らせた。




