花見 其之壱
試衛館の門徒たちを総動員した捜索もむなしく、中沢琴の行方は杳として知れなかった。
その日おそく。
浪士たちは、ふたたび新徳寺の本堂に集められた。
「諸君、よろこんでくれ。
帝はわれわれの希望を容れられた。
これよりわが浪士組は、ただちに前線へ駒を進める」
清河八郎は、高らかに宣言した。
浪士たちは、その言葉の意味するところよりも、自分たちの名をつらねた建白書が孝明天皇の玉眼にふれ、あまつさえ認可を下されたという事実に感動してどよめいている。
実際のところ、それに天皇が直接目を通したとは、とても思えなかったが。
ともあれ、清河の企みも、これで朝廷のお墨付きを得たわけだ。
浪士組の幹部たちは苦虫をかみ潰したような顔をしている。
「前線ねえ。清河先生、前線てないったいどこです。もう少しくわしく教えてもらえねえか」
いならぶ浪士たちの中ほどから声があがった。
清河はそこに、不敵な笑みを浮かべて立つ芹沢鴨を見た。
その瞳には挑発的な光が宿っている。
清河は片方の眉をあげると、酷薄な眼差しを返した。
「つまり、これから東へとって返し、横浜に艦隊を停泊させ、生麦の件で脅迫まがいの談判を行っているイギリス人どもに、ひと泡吹かせてやるということです」
謀略の天才、清河八郎は、ついにその真意を明かした。
聴衆の前列に陣取ってこの話を聞いていた山南敬介は、唇をかんで、
「くそ!」と小さく毒づいた。
となりに座っていた近藤勇は、それをちらと見たが、すぐに視線を正面にもどし、無言でことのなりゆきを見守っている。
清河のいう生麦の件とは、前年、横浜の生麦村で起こった、ある事件を指している。
文久二年八月廿一日、薩摩藩の実質的指導者、島津久光ひきいる400の軍勢が、江戸から京へ向かってこの村を通りかかったときのことだ。
観光目的で村の近辺に居合わせたイギリスの生糸商マーシャルとその一行が、馬上のまま隊列にまぎれ込んでしまった。
だがこれは、藩主の父、久光を押し立てた事実上の大名行列である。
イギリス人の非礼な振る舞いに腹をたてた薩摩藩士たちは、無礼討ちと称して彼らに斬りかかり、一人を斬殺、マーシャルを含めた二人に重傷を負わせた。
事件を受け、イギリスは10万ポンドという莫大な賠償金を幕府に請求した。
これが文久三年二月十九日、浪士組が京に向かう途上にあった、まさにその頃のことである。
「そりゃあ、豪気なはなしだ!たいしたもんだ!」
芹沢鴨はおおげさに手を打ってみせた。
そして、のっそり立ち上がると、例の大鉄扇の先で清河を指した。
「だが言っとくがなあ、清河さんよ。俺たちゃわざわざこんなとこまで花見にきたわけじゃねえんだ。このまま何もせずに引き返すってのは、どんなもんかねえ」
「もはや目的は果たした。我らは攘夷の実行という大事の許可をとりつけたんだからな」
それまで二人のやり取りを黙って聞いていた近藤勇が、おもむろに腰を上げた。
「我らは幕府の呼びかけに応じて、今ここにいる。そもそもの目的は、大樹公(徳川家茂)をお守りすることだったはずです。攘夷も結構だが、まずは大樹公のご指示を仰ぐのが筋というものでしょう」
清河は、近藤の方を見向きもせずに言った。
「事態は一刻の猶予もない。交渉のなりゆきによっては、横浜でいつ戦端がひらかれるのか、予断をゆるさんのだからな」
「始まるか始まらないかわからん戦争のために、また横浜まで戻るというのですか。家茂公は、まちがいなく、もうすぐ上洛されるというのに」
清河は、ゆっくりと近藤に向き直り、静かに、しかし、断固たる意志を込めて説いた。
「近藤先生、これは帝の思し召しだ。せっかく家茂公が帝に攘夷を約束されても、戦場に我ら兵士がいなければ話になるまい」
確かに、今こうしている間にも、横浜では幕府とイギリスの交渉が、続いているはずだった。
ここにきて事態が緊迫の度を増しているというのは、あながち方便とばかりも言えない。
だがこの状況は、清河にとってまさに好都合だったのだ。
彼の思惑は、交渉の行方などとは関係ない。
この機に乗じてこちらから仕掛ければ、労せずして「攘夷」の導火線に火をつけることが出来るだろう。
やがて、その小さな火は、より大きな戦火を呼ぶ。
手持ちの駒を二百ばかりしか持たない浪士組にとっては、考えうる最大の効果をあげられるはずだ。
おそらく、幕府は負けるだろう。
清河八郎ほどの男が、それをわからないはずがなかった。
そして、それこそが清河の狙いだったのだ。
彼のかかげる「打倒欧米列強」にウソはない。
しかし目的を遂げるためには、既存の政治体制(徳川幕府)をうちこわし、それに代わる法秩序をつくることが絶対条件であるというのが、彼の持論だったのである。
天地を引っくり返す。
彼が、「回天の志士」と呼ばれる由縁だ。
「それは、詭弁だ。江戸には幕府軍だっている」
近藤は、清河の考えを見透かすようにこたえた。
「ハ!」
清河は嘲笑をうかべ、幕臣である鵜殿鳩翁や佐々木只三郎をかえりみた。
口にこそ出さなかったが、その笑みには、幕府の老中どもに何ができるという含みがある。
たしかに彼らは、これまで再三にわたって譲歩をくり返してきた。
「こう言っちゃなんだが、私には、幕府はいまだ踏ん切りをつけられないでいるように見える。鵜殿様、実際のところ、どうなんです」
思わぬ飛び火に、浪士組の長、鵜殿鳩翁は一瞬返答につまったが、
「大樹公の御心を推し量るなど、僭越なまねはできん」
と応えたきり、押しだまった。
「上手く逃げましたな。さすが、場数を踏んでるだけのことはある」
佐々木只三郎が、こめかみに青筋を浮べて清河をにらんだ。
「きさま、無礼であろう!」
しかし、彼ら幹部にとっても、浪士組の実権を清河に奪われたいま、彼らをこのまま京に置いておくことは好ましくなかった。
奇妙なことに、江戸に引き返すというその一点において、清河と鵜殿、佐々木らの意見は、一致していた。
ところが、
芹沢鴨ほど思うに任せない男もいない。
「まあ、いいさ。行きたきゃ横浜でもどこでも、勝手に行きゃあいい」
彼は、終わりの見えない議論を断ち切った。
清河と近藤は、いや、その場にいる全員がいっせいに芹沢へ視線を注いだ。
「だがな。俺は残るぜ」




