後始末の方法 其之参
文久三年六月朔日
この日、下関には少し気の早い台風が近づいていた。
海は時化て、白い波頭が飛沫を上げ、荒れ狂っている。
いつもなら、港には北前船と呼ばれる貿易船が頻繁に行き来するのだが、この日は座礁を恐れて陸に近づく船もなかった。
突然、大砲の轟音がとどろいた。
先の久坂玄瑞たちによる馬関海峡封鎖に対して、アメリカ合衆国海軍の報復が始まったのだ。
軍艦ワイオミングは、豪胆にも、ただ一隻で下関港に乗り込んできた。
長州側は、遅かれ早かれ反撃のあることを予期していたから、不意を突かれたという表現は当たらない。
実際、先制攻撃を仕掛けたのは長州軍の方だった。
しかし、ワイオミング艦長デビッド・マクドゥーガルは、すでに敵の戦力を分析し、見切っていた。
クロフネは前時代の砲台をあざ笑うかのように、その射程距離の外側を悠々と航行し、停泊していた長州の軍艦に砲撃を開始した。
長州最大の軍艦、壬戊丸は、態勢を立て直そうと一時逃走を図るも、火力、機動力で圧倒的に勝るワイオミングに難なく追いつかれてしまった。
長州は慌てて庚申丸と癸亥丸を救援に向かわせたが、結果、長州海軍の誇る三隻の軍艦をもってしても、ワイオミングにはまったく歯が立たなかった。
この日、長州軍の人的被害は、死者8名、負傷者7名にとどまったものの、
壬戊丸と庚申丸の二隻は撃沈、癸亥丸は大破して、長州海軍は壊滅的な打撃を受けた。
しかし、列強の報復はこれに止まらなかった。
その四日後、今度はフランスの軍艦、セミラミスとタンクレードが馬関海峡に現れ、
壇ノ浦砲台、前田砲台に、激しい砲火を浴びせた。
砲台が成す術もないまま沈黙すると、フランス軍は間髪入れず小舟に乗り込んだ陸戦部隊を送りこみ、ここに、長州はあっけなく敵の上陸を許した。
部隊は、すばやく砲台を占拠、続いて付近の漁村まで前線を進めた。
彼らは、他の属領でまず最初にやったように、未開の現地人に恐怖を植え付けることから始めたのだ。
遅ればせながら応戦に駆け付けた長州軍は、その思惑通り、格の違いを思い知らされることになる。
ここでも勝敗を分けたのは火器の差だった。
フランスの部隊は、陸戦歩兵用のライフル銃としては当時最新式のミニエー銃を装備していたのに対し、刀と火縄銃しか持たない長州軍は、沖のフランス軍艦からの援護射撃もあって進軍を阻まれ、敵に近づくことすらできなかった。
その間に、敵部隊は前田村の民家に火を放ち、予定していた作戦を完遂して易々と帰艦したのだった。
毛利家は、この二度に渡る戦闘で、ほとんど敵の顔を見ることも適わないまま、完敗を喫したのである。
新見が下関に到着したのは、それから十日あまりも過ぎた頃だった。
「そんな。しかし幕府軍なら結果は違っていたはずだ、大樹公はすでに蒸気式軍艦を…」
老人から、この場所で起きたことを聴いた新見は、一縷の望みにすがるように言いかけたが、
日本海軍がまだ近代化の途上にあり、欧米列強と比肩するには程遠い段階であることくらいは知っている。
「のんた、どこからおいでんさった」
「水戸だ。願わくば、私も攘夷の一助にと…」
「…ほうかいね。へじゃけど、もう遅いっちゃ」
老人は消え入るような声でこたえた。
その眼に涙が浮かんでいるのを見た新見は、言葉を飲み込んだ。
彼は、ここで独り、ずっと失われた故郷の在りし日の姿を想っていたのだろうか。
誰よりも冷徹であろうとしたこの壬生浪士は、思わず小さな亡骸を抱き上げていた。
「しかし…こんな、こんな酷い…」
「その子の名は田中伊織であります」
「え?」
老人がボソリと呟いた名を、新見は聴き返した。
「おかしいじゃろ?どう見ても百姓の倅じゃけ、そねえな訳はねえが、武士の名が欲しかったんじゃ。毛利のお侍衆が退く中、止める間もなく、独り名乗りを挙げて、海の方へ走っていきよった」
「…田中伊織」
新見はその名を口に出して繰り返した。
「のお、お侍さん。戦なんてもんは、いっそ酷いもんじゃあらせんか。それが、今度はここで起きた、それだけの事じゃあね」
「そんな…これがこの国の現実だというのか…あり得ない…」
この時、新見の信念、否、自我は、地獄絵図を思わせるこの村とともに灰燼に帰したのだった。
長州の敗北が、その後の出来事に様々な影を落としたのは間違いない。
政界での長州の立場は急速に悪化、弱体化し、それが逆に公武合体派に勢いを与えることになった。
現実を知らない攘夷過激派は、闘争心を煽られてますます先鋭化し、
もう少し理性的な攘夷派は、軍事力の差を痛感して、ある程度の路線変更は止むを得ないと認識を改めることになった。
失意のまま三田尻の部隊に帰った新見は、勝手な行動を咎められ査問を受けたが、再び酒におぼれ、処分の沙汰を待つあいだにも、さらに失策を重ねた。
危うく切腹させられかけたが、正親町公董の家臣、徳田隼人という男が新見の実力を惜しみ、どうにか刑を免がれた。
徳田の一存で、新見の処分は親兵の任を解かれる形で決着した。
打ちのめされた新見は、抜け殻のようになって、京へと舞い戻ることになる。
平石林之助殺害直後に話を戻そう。
一方、屯所に帰った平間重助は、離れの縁側に座っていた斎藤一を見つけると、目を怒らせてツカツカと歩み寄った。
「隠れて何をコソコソやってるのか知らんが、二度と我らの足を引っ張るような真似はするな」
斎藤は、平間の眼をじっと見据えたまま何も答えない。
釘を刺した平間も、そのままプイと背を向け立ち去ろうとしたが、数歩いったところで思い直したように振り返った。
「言い忘れたが、平石はもう何もしゃべれん。新見さんに感謝するんだな」




