バタフライ 後篇
「俺は船頭ん倅で、幼んけ頃から、ないがしろにさるんにゃ慣いちょる。じゃどん、人を斬った数だけ、俺はこん世に足跡を残したんじゃ。じゃっで、島田左近ぁ死に、大獄は終わった。俺ちゅう人間が居らんかったこちさるっだけぁ、いけんしてん我慢ならん」
沖田は、自分には理解できないと軽く首を振った。
「そんなの自分が死んじゃえば、どっちだって同じだと思いますがね」
新兵衛は目の前に置かれた刀にそっと手を置き、二人を見た。
「お志し、確け受け取いもした。じゃっで、もうよかろ。出て行かんね」
「悪いが、こちらもお役目だ。そうはいかん」
斎藤は、結果を見届けるまで帰らないつもりだった。
逆らうなら、それも良しと考えている。
新兵衛は鬼気迫る表情で斎藤を睨みつけた。
「俺も武士ん端くいじゃ。今更、こいを持って悪あがきしよなどちゅ了見はごわはん」
親兵衛が握りしめた拳に、青い血管がいく筋も浮き出るのを、沖田はじっと見つめていた。
「…斎藤さん、行こう。この人を信じよう」
その言葉には、強い尊敬の念、あるいは賛美、あるいは信義、よく分からないが、何かそのようなものが込められていて、斎藤をハッとさせた。
「分かった」
斎藤は納得した様子で立ち上がり、そして新兵衛と最後の言葉を交わした。
「そういえば、 田中河内介のことだが…」
「…」
新兵衛は、沈黙をもってその続きを促した。
「少なくとも柴山弥助という男には、今でもその姿がはっきりと見えているらしい」
それは、意に反して田中河内介をその手にかけた男の名だった。
新兵衛は苦い顔をして応えず、部屋を出る沖田と斎藤に、ただ
「あいがとごわした」
とだけ告げた。
部屋を出るとすぐ、
沖田は斎藤の袖を引いた。
「なに今の?お化けの話?」
「お化けか…そうだな。かもしれん」
「なに一人で納得してるのさ、気持ち悪!」
斎藤は小さなため息をついた。
沖田が場違いにはしゃぐのは、一気に緊張が解けたせいだ。
刀を抜かず済んで、心から安堵していることに、沖田自身は気づいていない。
調べの間に独り残された人斬り新兵衛に話を戻す。
新兵衛は刀を両手で持ちあげ、眼の高さでゆっくりと鯉口を切った。
ところがそこへ、沖田たちと入れ代わるように、下働きの女が入ってきた。
「お茶をお持ちしました」
新兵衛はまた、刀身を鞘に納めると、
畳の上に置いて遠ざけた。
「あら、浪士組の方々はもうお帰りですか?」
盆を置きながら、女は部屋を見渡した。
此処には新兵衛と二人きりだというのに、なぜか恐怖を感じている様子はない。
「ああ。そんごたる」
新兵衛は、床几の上で根付を弄びながら、気のない返事をした。
しかし、いつまで経っても立ち去ろうとしない女中を不審に思い、その顔を改めて見て驚いた。
「ワイ(おまえ)は…あん時ん女郎、お捨か」
それは、“あの”辻君が名乗った偽りの名前だった。
「思い出してくれた?」
新兵衛は、急にカッとなって、証拠として突き付けられた薩摩下駄を辻君の足元に放り投げた。
「現場い落ちてたそうじゃ。あいはワイ(おまえ)ん仕業んごちゃ」
「なんだ、聞いちゃったの?ずっと不思議だったんじゃない?覚えのない下駄が現場に落ちてたこと。そう、これを置いたのはあたし」
「誰な、俺をハメたんは?」
新兵衛は、彼女の背後には、当然誰かがいると踏んでいる。
薩摩か、あるいは土佐勤皇党の誰か。
「人聞きの悪い。姉小路を殺ったのは、間違いなく貴方でしょ?」
確かにその仕掛けは、結果的に捜査を実行犯へと導いた。
「じゃっどん…」
「言いたいことは分かるわ。けど今さら、貴方が何を言ったって、誰も信じない。てか、いいじゃない、もうそんなことは。もっと楽しい話をしましょ」
そう言って女中姿のお捨は、斎藤の残した刀を手に取った。
「ワイとは行きずりのはず」
「傷つくわねえ。あたし、例の生糸問屋の離れで、薬を作ってるあんたと会ってるわ」
「ワイは一体、何がしよごたっ」
辻君は鞘からゆっくりと刀身を引き抜き、それが放つ光にうっとりした表情を浮かべた。
「でも、ほんとはね、その前にも一度会ってる。もう一度、よおく思い出してみて。この顔に見覚えないかしら?」
新兵衛は、眼を凝らし記憶を辿るように辻君を見つめた。
しかし、何も思い出せない。
「そっか…残念」
辻君は豹のように親兵衛へ這い寄り、胸を反らして顔を近づけた。
「木屋町で、あんたが島田左近を斬った時、あたしもあそこにいたの」
そして、手にした刀でゆっくりと新兵衛の腹を突き刺した。
親兵衛の目が見開かれた。
「…ワイが?」
残り少ない血液が身体中から抜けていくのを感じながら、それでも新兵衛は、あの時のことを必死で思い出そうとした。
辻君の頬は、興奮で上気している。
「だから、そうね、自決なんて名誉を、貴方にくれてやるつもりはないの」
そして、朦朧とする男の耳元に、自分の本当の名を囁いた。
薄れていく意識の中で、新兵衛は眼の前の女と、「その人」を重ね合わせた。
「ふふ、でもこれを復讐だなんて思わないで。私はあの島田左近のためになんか、指一本動かさない」
辻君は妖しく嗤い、親兵衛の顔を優しく撫でながら、挑発的に自分の唇を舐めてみせた。
「…ひとつだけ教えてくいやい。そいなあ、ないごて」
「あの件に関わった者は、一人残らずこの世から消し去る。そう、あなたや、私も含めて」
「ないごてじゃ」
新兵衛は譫言のように繰り返した。
「分かってるでしょ?貴方の出番はもう終わり。さっさと死になさい」
辻君は、思い切り横なぎに喉を切り裂いた。
部屋の壁に鮮血が飛び散った。
新兵衛は大きく目を見開き、女の顔をまじまじと見つめながら、
事切れた。
辻君はゆっくり立ち上がり、満足そうにその躯を見下ろした。
「…そうそう、これはもらっていくわね」
細い指でユニコーンの根付を摘み上げ、懐に仕舞う。
そして、復讐者から女中の顔に戻ると、何事もなかったように部屋を出ていった。
しばらくのち。
東町奉行、永井尚志は、頃合いを見計らって、調べの間に戻った。
静かに襖を開けると、その隙間から白い蝶々が舞い出てきて、ヒラヒラと廊下へ飛んで行った。
「どこから入ったのだろう…」
その行方を眼で追いながら、永井は独りごちで、
視線を部屋の中に戻した。
そこでは、計画通りに、全てが終わっていた。
一方。
奉行所から脱出した沖田総司は、同伴する斎藤一がしきりに背後を気にする様子を見咎めた。
「なに?」
「…見られている」
斎藤はボソリと答えた。
沖田は角を曲がるときに後ろを盗み見た。
確かに粗末な木綿の単衣に手拭いで頰被りした男が、こちらをじっと見ている。
「誰?」
「会津本陣で見た顔だ。俺たちが無事仕事をやり遂げたか、確かめに来ただけかもしれんが…」
「だったら、なぜ直接聞きに来ないんだよ」
「さあな」
「不味い…かな」
男の名は平石林之助。
かつて、芹沢鴨や新見錦とも顔を合わせている、自称「会津黒谷本陣の厩番」であるが、
その実、攘夷強硬派の水戸とも接触するなど正体の知れないところがある。
斎藤の眼には、暗い炎が揺らめいていた。
「問題ない。この件は俺に任せてもらおう」
また、蒸せかえるような京の夏が始まろうとしていた。
長い、夏が。




