狼の巣穴 其之弐
「…まったく、俺はアイツの飼い主じゃねえっつーの」
原田を連れてくるように仰せつかった土方が、ブツブツ言いながら八木家の庭を横切っていく。
向こうから、洗濯物をかかえた八木雅が歩いてくるのを認めた土方は、途端にその不機嫌な表情を、ひかえめだが魅力的な微笑に切り替えた。
「ああ、すみません、奥さん。うちの原田を知りませんか?」
「ひっ!」
雅は小さな悲鳴をあげて飛び退くと、早足で土方の脇をすり抜けて行く。
土方は眉間にしわを寄せながらふり返った。
「…なんで?」
「精が出るな」
玄関脇で素振りをしていた井上源三郎が、土方の声に振り向いた。
「おう!長旅のあいだ、ずっと木刀を振れなかったから、気持ちいいぞ。おまえもどうだ?」
井上はいかにも清々しげに笑って、額の汗を拭った。
「今日は遠慮しとこう。それより、左之助を見なかったか」
「さっき、母屋の方へ歩いて行ったがね」
土方は八木雅が歩いてきた廊下を振り返って口を曲げた。
「母屋になんの用事だ?」
「さあ?わたしに聞くな」
そのとき、新徳寺の方角から、紋付の羽織を着た数人のサムライが八木家の門の外を通りかかった。
みな、一様に深刻な顔をしている。
そのなかに見知った顔を見つけた土方が、手をあげた。
「ああ、西さん!おはようございます」
西恭助は、土方らが所属していた六番組の小頭で、道中、問題の絶えない試衛館の門徒たちに振り回された被害者だ。
試衛館の面々にとっては、いつも小ごとばかり言う煙たい男だったが、土方は組織内での近藤の立場を慮り、こうした礼節を欠かなかった。
西は何やら蒼ざめた顔で土方を見ると、かるく会釈してそそくさと行ってしまった。
「おい、今の見たか?源さん。あいつが俺にお辞儀するなんて、ただごとじゃねえな」
「たぶん、学習院へ行くんでしょ」
中沢琴の捜索に駆り出された藤堂平助が、門をふさいでいる二人を後ろから掻き分けて、口をはさんだ。
「学習院?」
学習院とは、御所の東側に建てられた官立の施設で、もとは貴族の教育機関といった意味合いのものだったが、昨今では山のように提出される建白書の類を受け付ける業務も兼ねている。
「きっと、昨日の建白書を出しに行ったんすよ」
「なるほど。連中、清河にケツを叩かれたわけか」
実際、西恭助らは「浪士組を攘夷の先駆けとすることを、朝廷に認めさせる」という重大な任務を言いつかっていた。
何ごとにも抜かりない清河は、あくまで表立った政治活動には顔を出さず、
「建白書を受理されなければ、その場で腹を切れ」
と、彼らに因果を含めていた。
顔を見合わせる三人の背後で、咳払いが聴こえた。
「そんな処に並んで突っ立たれたら、通られへんのやけど!」
土方のお株を奪うような仏頂面をさげた、八木秀二郎が竹刀をかついで仁王立ちしている。
「ああ、これは失礼」
井上が慌てて、道をあけた。
「どうも」
すまして通り過ぎようとする秀二郎の襟を土方が捕まえた。
「うわ!」
「聞きたいことがある」
土方は、本家本元の仏頂面を秀二郎の鼻先に突きつけた。
その迫力に圧されて、秀次郎は思わず視線を反らした。
「離してください。道場に行かんならんので」
「あんたのおっ母さんが俺を見る目が妙なんだ。なんつうか、汚らわしいもんでも見るようなさ。なんか心当たりないか」
井上は思わず吹き出した。
「気にしすぎじゃないのか?」
秀二郎は、小馬鹿にしたような笑みを浮かべている。
気の短い藤堂が、それを見とがめて、彼の両頬をつねった。
「そのヒネた笑い方は、なんか知ってるって意味だよな?ええ?お坊ちゃんよう?」
秀二郎は、その手を振り払って、吐き捨てた。
「痛いなあ!あんたらが、あんまりお気楽やから可笑しかったんや!」
土方が目をすがめた。
「なんだ。奥歯にモノが挟まったような言い方だな?」
秀二郎は、仕方がないという風に腰に手をやった。
「これはわたしから聴いたこと、浪士組の偉いさんには内緒ですよ?ありていに言えば、皆さんはあんまり都の人間に歓迎されてないんですわ」
「なんで!」
藤堂がまた手を出そうとするのを井上が押しとどめた。
「なんでぇ言われても。京の人間は昔から判官贔屓(同情心から弱者よりの心情を持つこと)の気がありまっさかい、長州に肩入れしてしまうんでしょ」
「けどよ。今は逆に長州が反撃に転じて、(安政の)大獄に関わった役人なんかが毎日のように殺されてるんだろ?」
藤堂が、食い下がった。
「そうは言うたかて、腐っても幕府ですわ。それに役人の親玉で島田左近ゆうのが、こっちではヘビみたいに嫌われとったから…まあ、あの人も、もう殺されてもうたけど。そやからどうしても、みな長州の方を贔屓目に見てしまいますのや」
「は!そんなもんかね」
土方と井上は、顔を見合せた。
「ちぇ、そんなの納得いかないっスよ」
しおれる藤堂の様子を見て悦に入った秀二郎は、追い討ちをかけた。
「それに。長州人は身なりもええし、金払いかて気前がよろし」
これにはさすがの土方も、ボロボロの着物の袂をつまんで、悲し気に眺めた。
と、そこへ呑気な顔をした原田左之助が現れて、馴れ馴れしく秀二郎の肩を叩いた。
「おいおいヒデ。あんましウチの人間を苛めねえでくれよ」
「…ヒデ?」
秀二郎は露骨にイヤな顔をして、原田を睨んだ。
もちろん、原田は意にも介さない。
「昔から武士は食わねど高楊枝つってな…」
「意味がわからん!」
秀二郎は、言下に断じた。
「…まあな。ぶっちゃけ俺にもよく分からんが、そういうもんなんだってよ、近所のひとにも言っとけ」
土方は、どこで油を売ってたのかと原田を問い詰めることも忘れて、深くうなずいた。
「めずらしくいいことを言ったな。だいたい、まだ何もやってねえうちから嫌われるなんてことがあるわけねえ。誰か俺たちの評判を落とすような工作をしてるヤツがいるんだ。すでに間者が入り込んでるとかよ」
秀二郎は、また意地の悪い笑みを浮かべた。
「そら知らんけど、土方さんの評判が悪いんは、そのせいやないですよ?」
土方は、妙に確信めいた口ぶりをいぶかった。
「なんで。」
「悪評を言いふらしとるのは、そこに居る原田さんやし」
秀二郎は、言い捨てると満足げに門を出て行った。
「腐っても幕府か…。京の人間てのは、見かけによらずキツイこと言いますねえ」
藤堂平助が妙な感嘆を漏らして振り返ったときには、
すでに土方と原田の姿はそこになく、追いつ追われつ遠ざかっていく二人を腕組みしながら見送る井上源三郎の後ろ姿があるのみだった。




