狼の巣穴 其之壱
翌朝、八木邸にて。
「そらもう、近頃の街中ゆうたら物騒なこと、この上なしどす!」
主、八木源之丞が、大げさな身振りで訴えた。
急須を手にした妻の八木雅が、眉をひそめ相槌をうつ。
「この辺りは外れやさかいまだマシどすけど、おかげで商売女がここいらをウロつくようになって、えらい迷惑しとりますんえ」
「そりゃよくないねえ」
二杯目の味噌汁をすすって、何度もうなずいたのが、
原田左之助 ―ハラダサノスケ―である。
のちの新選組十番組長、
種田宝蔵院流槍術の名手にして、
戦場にあっては常にしんがりを務めた、破天荒な暴れ者。
新選組が京に残した軌跡を活劇風に語るとすれば、間違いなく主役はこの男だろう。
思慮分別には欠けるものの、義侠心に富んだ愛すべき好漢で、
西遊記でいえば孫悟空、
三国志なら張飛翼徳のような存在だ。
事実、新選組が京で演じた主な立ち回りの場面にはほとんど顔を出し、痛快な活躍を見せることになる。
その原田が椀を置くと、人目をはばかるように姿勢を低くして、箸の先を雅に突き付けた。
「しかし奥さん。その件は、うちの土方や永倉には黙っといた方がいいね」
「なんでどす?」
「ヤツらがそれを知れば、母屋に女を連れ込みかねないからさ」
「イヤやわあ!」
雅は原田が差し出した茶碗を受け取りながら、少し身体を引いた。
原田は目を閉じて腕を組んでみせる。
「ああ。そうなれば、この浪士組の風紀もイチジルシク損なわれるからねえ」
「せやけど土方はんて、あの男前の方どっしゃろ? そんな風に見えへんけど」
三膳めの飯を渡すと、雅は年甲斐もなく両手を握り合わせた。
その様子に、源之丞が顔をしかめる。
「ありゃ、筋金入りのムッツリスケベでね。この家は娘さんも多いし…ちっ、ヤバいなあ。ヤツの目が届かない場所へ隠しといた方がいいんじゃねえの?」
そう言って原田は壬生菜の漬物を口に運び、少し顔をしかめてから、その皿を八木家の三男勇之助の膳に戻した。
まだ六、七歳の勇之助はキョトンして左之助を見上げる。
「上の娘はみなさんの居はる離れには行かへんし、この子らはまだ小さいから、そら大丈夫ですわ」
雅は、うしろで人形遊びをしている娘の頭をなでた。
「分ってないねえ!油断しちゃあダメだってば!ヤツぁ見さかいってもんを知らねえ。いいか?メス猫だって放し飼いはお勧めできないね」
「そんなアホな」
源之丞が笑った。
「ある日、突然ヤツと同じ顔をした子猫が軒下でニャーニャー鳴いてた、なんてことになっても知らねえからな」
「こ、怖いわあ!」
雅は口を手で覆って、もう一方の手で原田が差し出した茶碗を受けとった。
源之丞が身を乗り出して聞いた。
「ひょっとして、永倉はんもそうなん?」
原田は、おもむろに茶を一口すすった。
「まあ、ムッツらないだけで中身は一緒だね。ただヤツの場合、女のほうから相手にされねえだけだ」
雅は安堵した表情で飯をよそいながら、夫の顔を見て何度もうなずいた。
「間違いが起こらんうちに聞いといてよかったどすがな」
源之丞は戯言には取り合っていられないと手を払い、ようやく先ほどから気になっていたことを口にした。
「ほんで、あんさんは、なんで此処でお食事を?」
ここは、八木一家が起居する母屋の奥の間である。
「あっちで食うとさあ、お櫃のご飯がアッという間になくなるから、みんなムキになってかき込むんだよ。俺はメシだけはゆっくり味わって食いたいクチでね」
原田はそう応えて、次男の為三郎がつまんだアジの干物を、器用にヒョイとハシ先でさらった。
「それに、こっちの方が一品多いしさ」
黙って話を聞いていた長男の秀二郎が、もうウンザリといった顔で立ち上がった。
「ごちそうさん。父上、道場にいってきます」
「おう、そうか。がんばってきいや」
源之丞が鷹揚に手を振ると、秀二郎は足早に部屋を出ていった。
まだ十八歳と多感な彼にとって、このあつかましい田舎ザムライの集団はどうにも我慢がならなかった。
「すんまへんなあ。愛想のない子で」
雅は四杯目の飯に手をつける原田に、申し訳なさげに微笑んだ。
秀二郎は、納戸へ剣術道具をとりに向かう途中、井戸で顔を洗っていた永倉新八に出くわした。
「よう、おはようさん!」
昨晩のうちに八木家の人間と一通り顔合わせを済ませていた永倉は、この嫡男に愛想よく挨拶をしたが、秀二郎は見下すような一瞥をくれて、素通りしてしまった。
「な~んか、やな感じ!」
永倉は秀二郎を振り返りながら、浪士組にあてがわれた離れに向かった。
すると、離れの手前にある植え込みの縁石に、芹沢鴨が腰かけている。
芹沢鴨率いる水戸グループと試衛館道場の面々は、どうした手違いからか、おなじ八木家に宿泊先を割り振られていた。
この二派の関係は依然として修復されておらず、折り合いも悪いままだ。
だが芹沢と神道無念流の同門である永倉新八だけは、以前から顔見知りということもあって、この反目の構図の外に身をおいている。
「よう芹沢さん。なにやってんだ、そんなとこで?」
永倉が怪訝な顔でたずねた。
芹沢はゲンナリした風に、背後にある離れを親指でさした。
「見ろ。あんなとこで飯が食えっかよ」
永倉が中をのぞいてみると、仲間たちが寿司詰めの状態で朝食を摂っている。
彼らは全部で十三人もいて、六畳間と四畳間を開け放ったとしても、
ズラリと並んだ膳の間隔は、明らかに定員オーバーだった。
渋い顔で振り返ると、芹沢が肩をすくめた。
「ムサ苦しいったらありゃしねえだろ?」
「まあ、あんなガラの悪い連中が突然やってきて住みついたら、家の人間もいい気はしねえか」
永倉は芹沢のとなりに腰掛け、先ほどの秀二郎の様子を思い出しながらため息をついた。
「おいおいなんだ?八木さんになんか言われたのかよ?」
芹沢がまた短気を起こしそうな気配を感じて、永倉が慌てて打ち消した。
「いちいちカッカしないでくれ!別になにか言われたわけじゃねえよ」
「別にカッカしてねえだろ」
芹沢は、気の抜けた顔で頬杖をついた。
永倉も同じ格好で、芹沢を流し見る。
「だが、あの長男坊がよう。なんともいえねえイヤァな顔でおれのことを見やがるんだ」
「カッカしてんのは、おまえの方だろうが」
「だって、こうだぜ?」
永倉は、秀次郎の目つきを真似て見せた。
「だいたい、ああいう育ちの良さそうなガキはハナッから好きじゃねえんだ」
芹沢はニヤリとしながら目配せを送った。
「おまえさ、そういうことは本人のいないとこで言った方がいいぜ?」
「え?」
見上げると、二人の正面には、中沢良之助を連れた八木秀二郎が憮然として立っている。
「山南さんゆう人にお客さんですわ」
中沢良之助は、混みあった離れの六畳間に通されると、迷惑そうな視線に晒されながら山南敬介のとなりに正座した。
「姉が帰ってきません」
山南敬介は箸をおき、ため息をついた。
それから、新見錦ら水戸一派をチラリと伺い、うなだれる良之助に囁いた。
「いつから?」
「あの寺で別れてから姿を見ないんです」
二人のただならぬ気配に、近藤勇と沖田総司も茶碗を持ったまま膝で這いよってくる。
沖田はおおよそ話の内容を察したらしく、
「またですか」
と、いやな顔をした。
「なにが?」
近藤は、山南と良之助の顔を見比べながら尋ねた。
山南が耳打ちすると、近藤はすぐに沖田を振り返った。
「総司」
「イヤですよ」
「まだ何も言ってねえだろ?」
「探して来いっていうんでしょ。イ・ヤ・だ。」
「年頃の娘さんを見も知らぬ町で一人にさせとくわけにもいくまいよ。何かあってからじゃ遅いんだから」
「何かあったとしても危険な目に会うのは相手の方で、お琴さんじゃない」
沖田はなおも言い張り、そっぽを向いた。
新見たちはというと、なぜか味噌汁を覗きこみながら、上方と関東の味付けの違いについて議論を戦わせている。
どうやらこちらの話にはまるで興味がなさそうだ。
「とにかく」
山南が口を開いた。
「清河さんの建白の件がはっきりするまで時間もある。その件は私が当たってみましょう」
近藤は山南の肩を小突いた。
「水臭いこと言いなさんな。みなで手分けして捜せば早いし、土地勘を養うにもちょうどいいじゃないか」
こともなげに言って、捜索隊を募るように部屋を見渡した。
「ん?源さんは?」
「玄関のまえで熱心に素振りしてましたよ。今日くらい休めばいいのにね」
いつの間にか輪の中に入ってきた土方歳三が、例によってひねくれた調子で茶々を入れた。
「熱心?下手の横好きってやつだろ。ま、ヒマを持て余してるお前らには、ちょうどいい仕事じゃねえか」
沖田が冷ややかに反撃した。
「土方さんも、ちっとは源さんを見習ったらどうです?」
「おいおい京まで来て塾頭面か?」
年長の土方は、沖田の総髪に結ったうしろ髪を引っぱった。
「痛い!痛いってば」
「ま、あの女のケツを追い回すくらいなら、素振りしてる方が有意義かもな」
良之助は神妙な面持ちでそのやりとりを聞いていたが、
「ほんとうに、皆さんにご迷惑をおかけして申し訳ない」
と恐縮して頭を垂れた。
不貞腐れた沖田が腕組みをした。
「皆さんには、もうひとり足りないでしょ。朝から原田さんがいない」




