KISS Pt.2
土方は、これ以上中村の相手をするのが煩わしくなったのか、話を打ち切る口実に、めずらしく自分から秩に声を掛けた。
「来られてたんですか」
「はい。大松様の介抱に。傷口の熱も引きましたので、もう安心かと」
「それは、ご苦労様です」
素っ気なく答えて部屋に入ろうとする土方を、秩は呼び止めた。
「あの、ちょっとよろしいでしょうか」
「まだなにか」
すでに用が済んだ土方は、さも迷惑そうに振り返った。
庭に居残っていた沖田総司と藤堂平助は、二人のただならぬ雰囲気を気取って、目を離すことも出来ず、じっと様子を窺っていた。
庭に面した部屋に居た秩には、先ほど土方が隊士たちを集めて話した事が全て漏れ聴こえていた。
「…私、これから何が起きるのか考えると怖いんです。やはりご公儀と雄藩の衝突は避けられないんでしょうか。姉小路さまの一件が、またあの大獄の時のような騒動の呼び水になるのではと…」
それは、秩だけでなく京に住む大部分の人が抱いている不安だった。
「聞いていたんですか」
土方の返事には咎めるような響きがあった。
「すみません。耳に入ってきたもので…」
「…どうでしょう。しかし、向こうがケンカを売ってくるなら、降りかかる火の粉は払わねばなりません」
秩はうつむいて、しばらく土方の言ったことを考えたのち、顔を上げた。
「…刀を抜く前に、せめて皆さんが敵だと思っている相手を知ろうとしていただけませんか。そして、時には許す寛容さを…」
「お秩さん、隊士たちを甲斐甲斐しく世話して頂いていることには感謝している。しかし、一介の町医者の下女に過ぎない貴方が御政道に口を差し挟むなど、少々慎みに欠けるのではありませんか」
見兼ねた沖田が割って入った。
「土方さん、その言い方は失礼でしょう」
しかし、秩は怯まなかった。
「井伊大老がどうなったか、ご存知でしょう?異なる信条を持つ相手を力に訴えてねじ伏せても…報復の連鎖の行きつく果てに勝者などいません」
「どうやら貴女は分かっていないようだ。私は出過ぎた口を挟むなと言ってる」
「同じ轍を踏むのですか?女とバカにするのも結構ですが、私から言わせれば、あの大獄とその報復で起きた悲劇の殆どは、彼らの無知蒙昧がさせたことです」
沖田は秩の肩を掴んで、自分に向き直らせた。
「お秩さんも言いすぎだ!土方さんだって好きでこんなことやってるわけじゃない!」
思わず、語気が荒くなった。
「沖田さん、わたし、わたしは…いえ、土方様、差し出口をして申し訳ございません。私の態度は僭越でした」
秩は深々と頭を下げると、逃げるように門を出ていった。
沖田は秩の様子を気にしながらも、土方を振り返った。
「…すみません」
「なぜお前が謝る?女のいう事を一々本気にしてたらキリがないぞ。二言目には、愛だの慈悲だの、まったく愚にもつかん戯言を…」
「そうですか?」
口を挟んだのは藤堂平助だった。
「…何が言いたい?」
土方が藤堂を睨んだ。
「さっきのお秩さんの様子は、ただ事じゃないですよ。あの若さで後家(未亡人)ということは、つまり旦那さんは先の大獄絡みで亡くなったんじゃないすか?」
沖田はそれを聞いて、改めて彼女のことを何も知らないことに気づいた。
藤堂は土方の返事を待つことなく続けた。
「平時に軽々しく友愛を語るのは、確かに軽佻浮薄の輩かもしれない。でも考えてみてください。今、京には様々な立場の人間がいて、互いに憎み合い、殺し合ってる。同胞や、肉親を殺された人々が報復を叫ぶ中で、愛を口にするのは大変な勇気がいるはずです」
「ふん。京女に毒されて腑抜けたか平助」
土方はせせら笑った。
「敵にも、妻や子供がいて、彼らの住む国許には、なんの罪もない、弱い立場の人間が大勢住んでいる。
頭では解っていても、自分がその当事者になった時、敵愾心や憎しみに囚われず、そこに考えが至って、相手を思いやれますか?
オレは、お秩さんほど、強く、気高い人間を知らない。あの人がどれほどの覚悟で、さっきの言葉を口にしたか、あんたに分かりますか?」
「…分かりたくもないね。下らん」
土方は苦々しい顔で吐き捨て、大股にその場を立ち去った。
藤堂は、一つため息をつき、沖田に向き直った。
「総司、おまえが味方になってやらなきゃいけなかったんじゃないのか」
「…ああ、その通りだ。けど、お前も土方さんのことが分かってないよ」
「じゃあ行って、お秩さんにも、そう言ってやれよ」
沖田はうなずいて、秩を追った。
「お秩さん!」
沖田が坊城通りで追いつくと、秩は振り返って、諦めの混じった笑みを浮かべた。
「やはりお武家様に、私たちの気持ちを分かって頂こうなんて虫のいい話でした」
「それは違う。貴女から見れば、土方さんの考えは物騒に思えるかもしれませんが、違うんです」
秩は沖田の目をキッと見返した。
「何が違うんでしょう」
「あの人は元々多摩の百姓の末っ子で、本当は、あなた方の辛さも、恐れも、悔しさも、すべて身に染みて知ってるんだ。心根では、何よりこの土地を耕す人たちを護りたいと願ってるんです。わたしなんかより、よっぽど。だからこそ、鬼にもなれるんです」
後の世に悪名の高い新選組は、ずっと後、幕府側の戦況が不利になってからも、長州や薩摩の様に町に火を放って逃げるような戦術を採ることだけは、ついになかった。
それは、彼らの中に農民出身の者が多くいた事と無関係ではないだろう。
しかし、秩は激しく首を横に振った。
「そうかもしれません!けど、敵味方は関係ないんです!私が言ってるのは、ここに住んでいる人たちのことだけじゃな…」
沖田は唇で、その続きを遮った。
秩の眼は大きく見開かれ、
沖田がそっと身体を引いた後も、
秩は、ただ茫然と立ち尽くした。
「…沖田さん?」
「ちょっと黙って。言い訳する時間くらい下さい」
夕焼けが、二人の全身を鮮やかな赤に染めていた。
沖田が初めて自分の気持ちを示したこの日、
それは同時に、壬生浪士組が暗く長い動乱のただなかへと脚を踏み入れた日でもあった。
そして数日後、事態は思わぬ急展開を見せる。




