表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
幕末カタナ・ガール  作者: 子父澤 緊
凶刃之章
301/404

猿ヶ辻にて

禁裏きんりをぐるりと囲む築地塀ついじべいは、北東にあたるかどだけが、かじり取られたようにL型にへこんんでいる。

これは北東が禁裏の鬼門きもんに当たる為で、この部分の塀の軒下のきしたには魔除まよけの猿が彫られていた。

この四辻よつつじが京の人々に「猿ヶ辻」と呼ばれる由縁ゆえんである。


文久三年五月廿(にじゅう)日、夜。

蒸し暑い京の夏が始まろうとしている。


魔除けの猿の真下、ちょうど塀がくぼんでいる物陰ものかげに、三人の刺客がひそんでいた。

その中に、田中新兵衛の姿があった。


物云わぬ魔除まよけの猿にとっては、禁中に御座おわす尊いお方の守護が与えられた責務であり、これから目の前で起ころうとしている惨劇には傍観ぼうかんを決め込むつもりのようだ。



その日、朝廷を辞去じきょした姉小路少将は、雑掌ざっしょう金輪勇かなわいさむ、吉村右京と、提灯ちょうちん持ち、草履ぞうり持ちの従者2名を伴って禁裏きんりの北門に当たる「朔平門さくへいもん」を歩いて出た。

門から西へ半町(55M)も行けば猿ヶ辻があり、通りをへだてた東には有栖川宮ありすがわのみやの大きな邸宅ていたくがある。

そこから、細い路地を一本はさんで、すぐ南が姉小路公知の屋敷だった。

禁裏きんりを出て姉小路邸の門まで、大人の脚なら歩いて5分ほどの距離しかない。


この若く凛々(りり)しい公卿くぎょうは、現在岐路(きろ)に立たされており、道々太刀持たちもちを務める金輪勇かなわいさむに苦しい心情を吐露とろしていた。

「どうすればええ?口さがない者どもは、麿まろ安房守あわのかみに丸め込まれたなどとホザいておるが、麿まろ自身は、まだ腹を決めかねておるのや」

何か返事を期待しているというより、言葉にすることで考えを整理している風にも聞こえる。

公家屋敷が集中するこの付近では、すでに人通りも絶えて、耳目を集める心配もない。

「しかし、小笠原殿にお会いになれば、世間はそのように受け取りましょう」

「まだ会うとは言うてない。そもそも、あのように大仰おうぎょうそなえで天保山に乗り込まれては、奴が都に入れてもらえるかどうかすら疑わしいわ」

「どういう意味でございますか」

弁慶べんけい渾名あだなされる巨漢きょかんの金輪は、ひたいに噴き出た汗をぬぐいながらたずねた。

「攘夷派への威嚇いかくのつもりかもしれんが、兵を率いてくるなどやり過ぎという事や。あれでは家茂公とて、朝廷の手前、さすがに看過かんか出来ぬであろう」

「では、今しばらくの猶予ゆうよがあると考えればよろしいのでは?」

「しかし、それも時間の問題よ。いつまでも旗色はたいろを明らかにせん訳にもいくまい…」


一行は猿ヶ辻に差し掛かった。


禁裏きんりの中から、(ふくろう)の鳴き声がきこえた。

その時、黒い影が三つ、

無言のまま、バラバラと彼らの行く手をはばんだ。


姉小路は、刺客しかくであることを直感した。

月光に反射して、彼らの手にした得物えものが白く光った。

三人はすでに抜刀ばっとうしている。

辺りはすでに暗く、頭巾ずきんのようなものを目深まぶかにかぶっていて顔はよく見えなかった。


そのうちの一人が、いきなり姉小路に斬りかかった。


武道の心得(こころえ)もある姉小路は、その初太刀しょたちを辛うじて中啓ちゅうけい(扇の一種)で受け流した。

刺客の眼は一瞬、驚きに見開かれた。


姉小路は、彼らが考えていたような、ひ弱な貴族ではなかった。


太刀たちを、太刀たちを!」

果敢かかんに立ち向かう気概きがいを見せ、太刀持たちもちを呼ぶが返事はない。


なんと、先ほどまで隣にいたはずの金輪勇は、下僕げぼくらと共に刀を持ったまま遁走とんそうしていた。


太刀たちを!」

姉小路はもう一度叫んだが、金輪は振り返りもしなかった。


もう一人の雑掌(ざっしょう)吉村右京は、十九とまだ年も若く、突然の事態に上手く対処できなかったが、ようやく気を取り直して抜刀ばっとうした。

姉小路に襲い掛かった男へ出鱈目でたらめに斬りかかり、その勢いに押されて男は後退した。


しかし、勢いに乗じた吉村が男を追い散らしにかかった刹那せつな


一人だけ着流きながしに下駄履げたばきの刺客が、上段から姉小路に斬りつけた。

こけたほおに鋭い切れ長の目、

田中新兵衛である。


示現流じげんりゅうの達人、一撃必殺の初太刀しょたちが振り降ろされた。


「!」

人斬り新兵衛は、目を疑った。

驚くべきことに、姉小路は、それをも中啓ちゅうけいで受け止めてみせたのだ。


もちろん、中啓ちゅうけいは断ち割られて、腕に深手(ふかで)を負ってはいるが、致命傷ちめいしょうには至っていない。


これまでであれば、絶対に仕損しそんじることのなかった間合いで、

もっとも自信のある一撃が、若い公家におうぎで受け止められたのだ。


目の前の景色がゆがみ、世界のすべてが(くず)れ去った。

後はもう素人(しろうと)同然に、無我夢中(むがむちゅう)で刀を振り回した。


もう一人の刺客が、新兵衛の相手で手一杯ていっぱいの姉小路を仕留めにかかる。


胸、そして顔と、滅茶苦茶(めちゃくちゃ)に斬り付けられながら、それでも姉小路は、新兵衛の刀を奪おうと素手(すで)刀身とうしんを握った。

「…太刀たちを…!」

幽鬼ゆうきのごとき表情で同じ言葉を繰り返す。


新兵衛はもう正気を失っていた。

「死ね。早う死んでくいやい…」

うわ言の様につぶやいて、向かってくる姉小路の手を必死で振り払おうとした。

その時、腹のあたりに熱いものを感じた。

見れば、刀の切先きっさきがアバラの下辺りから突き出ている。


ゆっくりと振り返ると、吉村右京がすさまじい形相ぎょうそうで背後から新兵衛の身体を刺し貫いていた。

「ハア…ハア…ハア…ハア!」

新兵衛は吉村の顔を凝視(ぎょうし)しながら、大きく呼吸した。

刀身とうしんを伝った血がベットリと付いた手から、ぬるりと(つか)すべる。


姉小路は後頭部を割られ、すでに死んでいてもおかしくないほどの血を流しながら、それでもその(すき)を突いて、新兵衛の手から刀をもぎ取った。

「クソ!」

姉小路が刀を構え、反撃に出る糸間(いとま)を与えては不味マズい。

とっさにそう思った新兵衛は、(ひじ)で背後の吉村を突き飛ばした。

腹を貫いていた(やいば)が抜け、血が吹き出した。


姉小路は、残された最後の力で刀を振るった。

その太刀筋には、もはや何の力もなかったが、その鬼気迫ききせまる様子が襲撃者を怯ませ、近づくことを躊躇ためらわせた。


「もういい!」

刺客の一人が叫ぶと、もう一人は刀を(さや)に収め、くず折れる新兵衛を支えた。

彼らはそのまま、手負いの新兵衛を両側から抱きかかえるようにして、足早に去っていった。


吉村右京は、地面に両膝(りょうひが)をつきたいほど疲れ切っていたが、そうする間もなく瀕死(ひんし)の姉小路に駆け寄った。

「姉小路卿!」

まだ息はあったが、どう見ても助からない。


姉小路の手から、新兵衛からうばった刀がすべり落ちて、

キンと小さな金属音を立てた。

この状態でなお、刀を握って闘おうとしたのだ。

驚くべき不屈の精神だった。


この主人が、単に日和見(ひよりみ)的な動機から、政治的な主義思想を(ひるがえ)したりするものだろうか。

吉村右京は刺客よりもむしろ、この誇るべき主人を置いて真っ先に逃げ出した金輪勇の方に無性(むしょう)に腹が立っていた。



姉小路公知は朦朧(もうろう)としながらも、吉村に支えられ自分の脚で屋敷まで戻り、

その夜半に息絶えた-。



現場には、一面に飛び散った血と、「奥和泉守おくいずみのかみただしげ」とめいの入った真新まあたらしい刀だけが残されていた。



以上が、後世に朔平門さくへいもんの変、あるいは猿ヶ辻の変と呼ばれる事件の顛末てんまつである。

幕末に起きた数多くの血生臭ちなまぐさい暗殺の中で、

この事件を特徴とくちょうづけているのは、

なんと言っても動機を含め多くの謎が残されたままになっている点だろう。



全てが終わったあと、

何処どこからか一人の女が現れ、

立ち止まって血溜ちだまりに視線を落とした。


禁裏きんりふくろうがまた鳴いている。


女は何か考えにふけるように、長い間じっとそこにたたずんでいた。


やがて、女は風呂敷ふろしきに包んだ何かを地面にぶちまけ、

来た時と同じように静かに去って行った。


築地塀ついじべいの猿だけが、

その様子をじっと見つめていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
cont_access.php?citi_cont_id=929024445&size=135
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ