猿ヶ辻にて
禁裏をぐるりと囲む築地塀は、北東にあたる角だけが、かじり取られたようにL型に凹んでいる。
これは北東が禁裏の鬼門に当たる為で、この部分の塀の軒下には魔除けの猿が彫られていた。
この四辻が京の人々に「猿ヶ辻」と呼ばれる由縁である。
文久三年五月廿日、夜。
蒸し暑い京の夏が始まろうとしている。
魔除けの猿の真下、ちょうど塀がくぼんでいる物陰に、三人の刺客が潜んでいた。
その中に、田中新兵衛の姿があった。
物云わぬ魔除けの猿にとっては、禁中に御座す尊いお方の守護が与えられた責務であり、これから目の前で起ころうとしている惨劇には傍観を決め込むつもりのようだ。
その日、朝廷を辞去した姉小路少将は、雑掌の金輪勇、吉村右京と、提灯持ち、草履持ちの従者2名を伴って禁裏の北門に当たる「朔平門」を歩いて出た。
門から西へ半町(55M)も行けば猿ヶ辻があり、通りを隔てた東には有栖川宮の大きな邸宅がある。
そこから、細い路地を一本はさんで、すぐ南が姉小路公知の屋敷だった。
禁裏を出て姉小路邸の門まで、大人の脚なら歩いて5分ほどの距離しかない。
この若く凛々しい公卿は、現在岐路に立たされており、道々太刀持ちを務める金輪勇に苦しい心情を吐露していた。
「どうすればええ?口さがない者どもは、麿が安房守に丸め込まれたなどとホザいておるが、麿自身は、まだ腹を決めかねておるのや」
何か返事を期待しているというより、言葉にすることで考えを整理している風にも聞こえる。
公家屋敷が集中するこの付近では、すでに人通りも絶えて、耳目を集める心配もない。
「しかし、小笠原殿にお会いになれば、世間はそのように受け取りましょう」
「まだ会うとは言うてない。そもそも、あのように大仰な備えで天保山に乗り込まれては、奴が都に入れてもらえるかどうかすら疑わしいわ」
「どういう意味でございますか」
弁慶と渾名される巨漢の金輪は、額に噴き出た汗を拭いながら尋ねた。
「攘夷派への威嚇のつもりかもしれんが、兵を率いてくるなどやり過ぎという事や。あれでは家茂公とて、朝廷の手前、さすがに看過出来ぬであろう」
「では、今しばらくの猶予があると考えればよろしいのでは?」
「しかし、それも時間の問題よ。いつまでも旗色を明らかにせん訳にもいくまい…」
一行は猿ヶ辻に差し掛かった。
禁裏の中から、梟の鳴き声がきこえた。
その時、黒い影が三つ、
無言のまま、バラバラと彼らの行く手を阻んだ。
姉小路は、刺客であることを直感した。
月光に反射して、彼らの手にした得物が白く光った。
三人はすでに抜刀している。
辺りはすでに暗く、頭巾のようなものを目深にかぶっていて顔はよく見えなかった。
そのうちの一人が、いきなり姉小路に斬りかかった。
武道の心得もある姉小路は、その初太刀を辛うじて中啓(扇の一種)で受け流した。
刺客の眼は一瞬、驚きに見開かれた。
姉小路は、彼らが考えていたような、ひ弱な貴族ではなかった。
「太刀を、太刀を!」
果敢に立ち向かう気概を見せ、太刀持ちを呼ぶが返事はない。
なんと、先ほどまで隣にいたはずの金輪勇は、下僕らと共に刀を持ったまま遁走していた。
「太刀を!」
姉小路はもう一度叫んだが、金輪は振り返りもしなかった。
もう一人の雑掌吉村右京は、十九とまだ年も若く、突然の事態に上手く対処できなかったが、ようやく気を取り直して抜刀した。
姉小路に襲い掛かった男へ出鱈目に斬りかかり、その勢いに押されて男は後退した。
しかし、勢いに乗じた吉村が男を追い散らしにかかった刹那。
一人だけ着流しに下駄履きの刺客が、上段から姉小路に斬りつけた。
こけた頬に鋭い切れ長の目、
田中新兵衛である。
示現流の達人、一撃必殺の初太刀が振り降ろされた。
「!」
人斬り新兵衛は、目を疑った。
驚くべきことに、姉小路は、それをも中啓で受け止めてみせたのだ。
もちろん、中啓は断ち割られて、腕に深手を負ってはいるが、致命傷には至っていない。
これまでであれば、絶対に仕損じることのなかった間合いで、
もっとも自信のある一撃が、若い公家に扇で受け止められたのだ。
目の前の景色がゆがみ、世界のすべてが崩れ去った。
後はもう素人同然に、無我夢中で刀を振り回した。
もう一人の刺客が、新兵衛の相手で手一杯の姉小路を仕留めにかかる。
胸、そして顔と、滅茶苦茶に斬り付けられながら、それでも姉小路は、新兵衛の刀を奪おうと素手で刀身を握った。
「…太刀を…!」
幽鬼のごとき表情で同じ言葉を繰り返す。
新兵衛はもう正気を失っていた。
「死ね。早う死んでくいやい…」
うわ言の様につぶやいて、向かってくる姉小路の手を必死で振り払おうとした。
その時、腹のあたりに熱いものを感じた。
見れば、刀の切先がアバラの下辺りから突き出ている。
ゆっくりと振り返ると、吉村右京がすさまじい形相で背後から新兵衛の身体を刺し貫いていた。
「ハア…ハア…ハア…ハア!」
新兵衛は吉村の顔を凝視しながら、大きく呼吸した。
刀身を伝った血がベットリと付いた手から、ぬるりと柄が滑る。
姉小路は後頭部を割られ、すでに死んでいてもおかしくないほどの血を流しながら、それでもその隙を突いて、新兵衛の手から刀をもぎ取った。
「クソ!」
姉小路が刀を構え、反撃に出る糸間を与えては不味い。
とっさにそう思った新兵衛は、肘で背後の吉村を突き飛ばした。
腹を貫いていた刃が抜け、血が吹き出した。
姉小路は、残された最後の力で刀を振るった。
その太刀筋には、もはや何の力もなかったが、その鬼気迫る様子が襲撃者を怯ませ、近づくことを躊躇わせた。
「もういい!」
刺客の一人が叫ぶと、もう一人は刀を鞘に収め、くず折れる新兵衛を支えた。
彼らはそのまま、手負いの新兵衛を両側から抱きかかえるようにして、足早に去っていった。
吉村右京は、地面に両膝をつきたいほど疲れ切っていたが、そうする間もなく瀕死の姉小路に駆け寄った。
「姉小路卿!」
まだ息はあったが、どう見ても助からない。
姉小路の手から、新兵衛から奪った刀が滑り落ちて、
キンと小さな金属音を立てた。
この状態でなお、刀を握って闘おうとしたのだ。
驚くべき不屈の精神だった。
この主人が、単に日和見的な動機から、政治的な主義思想を翻したりするものだろうか。
吉村右京は刺客よりもむしろ、この誇るべき主人を置いて真っ先に逃げ出した金輪勇の方に無性に腹が立っていた。
姉小路公知は朦朧としながらも、吉村に支えられ自分の脚で屋敷まで戻り、
その夜半に息絶えた-。
現場には、一面に飛び散った血と、「奥和泉守」と銘の入った真新しい刀だけが残されていた。
以上が、後世に朔平門の変、あるいは猿ヶ辻の変と呼ばれる事件の顛末である。
幕末に起きた数多くの血生臭い暗殺の中で、
この事件を特徴づけているのは、
なんと言っても動機を含め多くの謎が残されたままになっている点だろう。
全てが終わったあと、
何処からか一人の女が現れ、
立ち止まって血溜まりに視線を落とした。
禁裏の梟がまた鳴いている。
女は何か考えに耽るように、長い間じっとそこに佇んでいた。
やがて、女は風呂敷に包んだ何かを地面にぶちまけ、
来た時と同じように静かに去って行った。
築地塀の猿だけが、
その様子をじっと見つめていた。




