鬼の副長 其之参
馬詰信十郎が手を合せ、哀れを催す声で斎藤にすがった。
「お、お、お待ちください、斎藤先生。倅は…」
こういう時、常であれば、皆に何某かの示唆を与える山南敬介も、今日は何故かずっと静観を貫いている。
「やれやれ、またかよ…」
永倉新八が片膝を立てて、止めに入ろうとしたその時、
土方がサッと立ち上がって、芹沢ら水戸派を見渡した。
「しかし隊士達の話では、皆さん酔っておられたとか?それでは、まともに走ることも刀を振るうことも出来ますまい。突き詰めれば、それが今回の失策の大元では?」
「言うに事欠いて、俺たちにヘマを押し付ける気か!貴様から先に斬り捨ててやる!!」
激高する平山の両肩を芹沢が押さえた。
「もういい、もういい。近藤、俺が悪者になって済むなら、今回のことは道場の一件と相殺してチャラってことにしといてやるよ。俺だって、可愛い隊士達が切腹させられるのは見たくないからな」
「…ぐ、かたじけない」
近藤は、頭を下げながらギリギリと歯噛みした。
斎藤はそんな近藤の様子をじっと見つめながら、無言で席に戻った。
隣に座っていた永倉新八が、斎藤の耳元で意地の悪い質問をした。
「おまえ、本当に斬れたかい?」
「無論だ」
斎藤がむっつりと答える。
「良心が痛むことは?まだそんなもんが残っていればの話だが」
「別に。敵前逃亡に等しい罪だ。切腹などむしろ寛大に過ぎるくらいだと思うが」
この時代、切腹は武士にとって名誉の死とされた。
様々な出自を持つ浪士組の隊士にとって、それを許されることは、すなわち武士だと認められたという見方もできる。
「モノは言い様だね」
「散会だ、散会!ほれ、部屋に帰るぞ!」
芹沢の一言で、幹部たちが銘々席を立つ中、
斎藤はめずらしく、自分から永倉に議論を蒸し返した。
「もし、その浪士があんたの方へ逃げてきたなら、あんたは斬って捨てたはずだ。俺でも、やはりそうする。常住死身たるべき武士が敵として対峙した以上、死体が一つないと帳尻が合わん」
永倉はその台詞が気に入ったらしく、小さく笑った。
「自分の腕を過信しねえこった。人間てのは、斬っちまえばお終いってワケにゃいかねえ。一人❘殺れば、次はそいつの一族郎党がお前を狙うぜ?」
「かもな。だがそうなれば、それも斬り捨てるまで」
「…気をつけな。あんまり人を斬りすぎて、イカレちまう奴だっている」
「まだ気づかないのか?」
斎藤は冷めた目で永倉を一瞥し、
「俺たちはもう、そうなっている」
そう言い置き、席を立った。
馬詰柳太郎と河合耆三郎は、冷や汗をびっしりかきながら、しばらくの間、手をついたままひれ伏していた。
ようやく、か細い命の糸が繋がったこと悟ると、二人は全身の力が抜けていくのを感じた。
頭上から副長、山南敬介の声が降って来た。
「もう大丈夫だから、頭を上げなさい」
二人が恐る恐る見上げると、山南が薄く微笑んでいた。
「覚えておきたまえ。君たちが次に敵と向き合ったとき、それがどういった局面であれ、武士として恥ずべき振る舞いはもう許されない…今回のことは、いい教訓として、次の機会を与えてくれた近藤局長と土方副長に感謝するんだな」
山南は、背後で険しい表情のまま座る近藤、土方を振り返った。
二人の大幹部がもう退席しているものと思っていた河合と柳太郎は、ハッとして再び畏まった。
山南は去り際に、襖の引手にかけた指をふと止めた。
「…ただ、土方さん」
土方は、その続きを黙って待った。
山南も振り返らない。
「…大義なんてものは、案外あてにならない拠り所かも知れん」
そのまま部屋を出ていく山南の背中に、土方は苦笑しながら毒づいた。
「…ちっ、また思わせぶりなことを」
柳太郎と河合は、近藤勇と土方歳三に這い寄って、また頭を畳に擦り付けた。
「近藤局長、土方副長。命を救っていただき、感謝いたします」
「お口添えありがとうございます。なんとお礼を申し上げればよいか、一生恩に着ます」
土方は、不機嫌に二人をギロリと睨みつけた。
「勘違いすんな。今回は、たまたま芹沢の失策を論うのに都合が良かったから、辻褄合わせの強弁をしたまでだ。図らずもお前らを庇うことになったが、次に同じ失態をやらかしたら、この俺が直々にその首を落としてやるから、覚えとけ」
一方、
部屋を出た山南には、水戸派の佐伯又三郎が追いすがっていた。
「どうも山南先生は、土方先生に対するもの言いに少々辛辣なところがありますなあ?」
佐伯は、二人の副長の間には溝があると睨んでいた。
新見に代わり、近藤派の切り崩しを図るつもりなのか、山南と肩を並べて歩きながら媚びた笑みを浮かべる。
しかし山南も、その見え透いた意図に迎合するように応じた。
「彼には世の中の趨勢というものが、まだ見えていない」
「いや、同感です」
「大義や正義などというものは、得てして些細なきっかけから不意に離れていってしまうものです」
「このご時勢、山南先生のご懸念は大いにあり得うべき事態です。そのご高見を今度ゆっくり…」 「だが、佐伯さん。私は確信しているんですよ」
歯の浮くお追従を、山南は突然遮ると、軽蔑を込めた眼差しで佐伯を睨んだ。
「はい?」
「例えそうなったとしても、土方歳三という男は決して逃げ出したりしないとね」
言い捨てて、足早に立ち去る山南の後姿を、
独り取り残された佐伯は、苦々しげに見送った。
近藤と土方は並んで部屋を出ると、そのまま近藤の自室に入った。
「歳、言いたかないが、新入り連中の怯懦が目に余る」
襖を締め切ると同時に、近藤が苦い顔で漏らした。
「…すまん。正直事を急ぐあまり、人選の段階で欠点にも敢えて目を瞑って、見極めが甘くなっていた事は否定できない」
土方は、率直に非を認める。
「厳しいようだが、図体ばかりデカくなっても、砂上の楼閣では困るんだ」
「…法度の草案を作ろうと思う」
「え?」
ボソリと土方がつぶやいた言葉に、何かしら秘めた決意のようなものを感じ取って近藤は聴き返した。
「これからは俺たちじゃなく、法が人を裁く」
近藤は、その言葉の意味するところを、しばらく考えた。
「お前や斎藤の言うことも道理だが、俺としては徒に隊士たちを処断したくない。規則を明文化すれば、俺たちにとっても、隊士たちにとっても、ますます逃げ道がなくなるぞ?」
「それも仕方あるまい。法度が公正に適用されれば、私情が入り込む余地はなくなる」
「それしかないのであれば、お前に任せるが…」
この時、近藤の抱いた危惧は後々現実となり、様々な悲劇を生むことになる
しかしそれでも、今、立ち止まることは許されなかった。
何故なら、危機はもうそこまで迫っていると近藤自身が感じていたからだ。
「このところ、また不穏な空気を感じないか。何か良くない事が起きる予感がするんだ」
果たしてその夜、事件は起きた。
300話です…。ちょっとー!終わる気配ないんですけど!とか思わないでください。




