三条河原の犬 其之壱
それは異様な光景だった。
三条河原に晒された「猿の文吉」は、一糸纏わぬ姿で頭から尻までを鋭い竹槍で貫かれ、杭に縛りつけられていた。
薄く開いた目に光はなく、焦点の合わないまま宙空を見つめている。
そして、歪に垂れた唇からは、長い舌が突き出ていた。
その表情は、まるで人を小バカにしているようにも見える。
そして何よりこの躯を奇妙に見せていたのは、
彼が縛りつけられた杭に、無造作に釘で打ち付けられた性器だった。
日が昇るか昇らないかのうちに、早起きの豆腐屋が最初にそれを見つけたあと、人々が吸い寄せられるように集まって来るのに時間はかからなかった。
嫌でも目を引くこの奇妙な躯の傍らには、斬奸状を貼った捨て札が立てられていて、そこにはこの男の悪行をながながと書きつらねた文言が並んでいた。
群れをなした野次馬たちは、それを読もうともせず、ザワザワと好き勝手な憶測を囁き合っている。
明けの六つ(6:00am)には、すでに河原は人でいっぱいで、「それ」を見ることの出来ない人々が、三条大橋の欄干に張り付くように身を乗り出していた。
橋上の人息れのなか、ぶっさき羽織に野袴という旅装の男がひとり、河原の人だかりを見下ろしている。
ハガネのように引き締まった長身に、油断のない物腰、菅笠を目深にかぶり、その下からのぞく眼は、射抜くような鋭い光を放っていた。
ひと目で剣客と分かる。
斎藤一 -サイトウハジメ-
後の新選組、三番組長である。
突きの名手にして、新選組屈指の剣客。
常に黙々と、そして着実に任務を遂行する男。
彼は、時にスパイや暗殺など、裏の仕事に多く関わったともいわれる人物だ。
もっとも、それは後の話であり、このときの斎藤はかぞえで十八、まだ少年といってもいい歳である。
今の彼は、ある事情から江戸を追われ、逃亡中の身だった。
そして今日、父のツテを頼ってたどり着いた京で最初に目にしたのがこの光景だった。
その斎藤のとなりで騒ぎを見物していた浪士風の男が、からかうような口調で声をかけてきた。
「あんたも京で一旗挙げようってクチかいな?悪いことは言わんから止めとき。この町ではなあ、生半可な腕じゃあ、命なんかいくつあっても足らへん」
猫背で、狡猾そうな目つきをしているが、見たところ斎藤よりいくぶん年上の青年に過ぎない。
男は、名を佐伯又三郎といって、斎藤とは後に浪士組(新選組)の同志となる人物である。
晒された死体を眺めるのにもそろそろ飽きて、人ごみを離れようとしていたところ、となりで無表情にこの騒ぎを眺める斎藤を見て興味が沸いたらしい。
若い「お上りさん」へ、年長者なりの忠告をしたつもりのようだ。
斎藤はそれには応えず、得体の知れないこの男を一瞥して、
「あれは?」
とみじかく訊ねた。
「目明しが殺られたらしいなあ」
「なぜ」
「あんた、関東者か?」
斎藤は無言のまま、ゆっくり佐伯の顔へ視線を移した。
「そう恐い顔すんなや。言葉がめずらしゅうてな」
睨まれた佐伯は、卑屈な笑みを浮かべながら弁解した。
「それとも、なんや訳アリかいな?ひょっとして、あんたも例の大獄で追われる身ぃか?」
―時代は幕末。
260年も続いた一つの時代が、まもなく終わりを迎えようとしている。
だが、そこに生きる人びとのほとんどは、まだそれに気づいてさえいなかった。
これより四年前、アメリカとの間に結ばれた通商条約の是非をめぐって、
徳川幕府内の意見は、真っ二つに割れた。
外交問題をめぐる対立は、やがて国論をも二分し、
混沌の時代は幕を開けた。
さらに事態を複雑にしたのは、時の将軍徳川家定の健康問題だった。
病弱な家定に、この国難に対応し得るだけの体力が残されていないという当面の危機もさることながら、分裂した幕閣がそれぞれ別の後継者候補を推したために、事態はますます抜き差しならなくなったのである。
政策をめぐる対立は、将軍家の世継ぎ争いが絡んだことで、いつしか幕府内の権力闘争にすり替えられてしまった。
やがて、紆余曲折の末、政局は、開国やむなしを唱える派閥に軍配があがった。
世継ぎに選ばれたのは、開国派に担がれた徳川家茂である。
そして、安政五年。
家定の病死を経て、家茂は第十四代将軍に就任する。
当然、熾烈な政争が、これだけでは終わるはずもなかった。
家茂が将軍職を継いでまもなく、大老の地位に就いた井伊直弼は、
水戸藩をはじめとする強硬な開国反対派を片っ端から捕らえさせ、
その中枢にいた者の多くを情け容赦なく弾圧した。
これは一橋慶喜を次期将軍に推した派閥に対する、ある種の粛清だった。
世に云う「安政の大獄」である。
血の粛清は、この活動にかかわった水戸藩士だけでなく、
幕臣や公卿、諸藩主、その家臣はもちろん、
その思想に傾倒する浪士、学者、はては画家にまで及んだ。
しかし、この歪んだ思想統制も、やがて綻びを見せはじめる。
大粛清がはじまって二年後、鬱積した怨嗟が、ついに事件をひき起こした。
大老・井伊直弼が、江戸城・桜田門の前で、水戸藩士の集団に襲われ、命を落としたのである。
反対勢力が、この弾圧に対して高らかに反旗をひるがえした瞬間だった。
のちに「桜田門外の変」と呼ばれたこの事件は、やがて京の勢力争いにも波及する。
これを契機に、尊皇攘夷派と呼ばれる長州勢や土佐勤王党などの過激派が、ついに反撃のキバを剥きはじめたのだ。
そもそも「尊王攘夷」とは、水戸藩のオピニオンリーダー藤田東湖が、中国の思想から持ち込んだスローガンだったといわれる。
「天皇を国家の最高権力者として尊び、外国人を武力で打ち払う」
こうした本来の意味はともかく、最近ではもっぱら外国人や開国派に与する者たちを殺すための口実として使われるようになった。
この呪文にも似た言葉は、すべての非合法手段を正当化する魔力を秘めていた。
そしてこの呪文を唱える者たちは、いつからか「尊王攘夷派」と呼ばれるようになり、
彼らの多くはお尋ね者となって、また、それゆえに一部の者からは反骨のヒーローと見做された。
佐伯は、斎藤もその尊攘派の一人で、幕府から追われていると思ったらしい。
「なら、ツいとるで。何せ、あそこで串刺しになっとるのが、攘夷派を追っかけ回しとった張本人なんやからな」
「つまり、あれも井伊の手先というわけか」
「あんた、ホンマになんも知らんのやなあ」
都暮らしの長い佐伯は、大袈裟に京の有様を嘆いて見せた。
「ほんの二年前まで、京の都では大獄の嵐が吹き荒れとったちゅうのに、桜田門からこっち、すっかり形勢逆転や。ほんでも、こんな血生臭い事件が起きるようになったんは、ここ最近の話やで?
まず手始めに、木屋町で井伊の右腕やった島田左近ゆう男が殺られてなあ。
ホンマは九条家に仕えとった青侍(公家に仕える侍)なんやけど、実際は井伊の直命で、京におる攘夷派を取り締まる元締めみたいな事をやっとったんや。こいつの首がチョン切られたんを皮切りに、手先になって攘夷派をしょっ引いとった連中が、ここんとこ次々血祭りにあげられとる」