ムツゴト 其之壱
遡ること4か月前。
文久三年一月廿八日、深夜。
京、下立売千本東入ルの、とある屋敷で。
「泣きなや、坊。お父は、お留守かえ?」
抜き身をぶら下げた”人斬り”岡田以蔵が、年の頃まだ十二、三の少年の頭に手を置き、猫撫で声で尋ねた。
「父上を殺すなら、まず私を殺せ!」
その少年は涙を浮かべながら、叫んだ。
以蔵は、いたく感心した様子でうなずき、
「まっこと、健気やか。坊、ほいたらお兄がええもんやおう」
そう言って、白く柔らかい物体を少年の手に握らせた。
少年は、手のひらに視線を落とすと同時に小さな悲鳴を上げ、手の中のモノを投げ出した。
ベタリと嫌な音を立てて床に落ちたのは、人間の耳だった。
「ホレ、お手伝いの姉やんから捥いじゃった耳じゃ。お兄の宝物にしようち思たけんど、おまんにあげるき」
この夜、“人斬り”田中新兵衛は、岡田以蔵ら数人の刺客とともにこの屋敷へ押し込み、最初に捕らえた下女に主人の居所を吐かせようとしたが、満足な答えを得られなかった。
この家の主、賀川肇は、岩倉具視などと共に和宮降嫁に力を尽くした公卿千種有文の雑掌(渉外事務)を務めていた。
攘夷派の恨みを買った上司の煽りを被って、新兵衛、以蔵らに命を付け狙われたのである。
少年は恐怖のあまり床にへたりこんだ。
「お兄は誤ってのう。その姉やんに大事なことを聞くまえに耳を捥いでもうたが。ほがな訳で姉やんは何を尋ねても聞こえんがじゃ。やき、教えとおせ。お父は何処に行ったが?」
その眼に宿る狂気を覗き見た少年は、火が付いたように泣きだした。
「しょうがないにゃあ。手ぶらで帰るわけにもいかんし、可哀想やけんど、この坊の首でも持って帰るかえ」
本当にやりかねないと焦った新兵衛は、慌てて以蔵を止めた。
「おいやめ、まだ子供じゃ…」
だが、以蔵は人差し指を口の前に立てて、新兵衛の言葉を遮った。
「しー!待ちや。なんぞ聴こえんが?」
その時。
「下郎ども!恥を知れ!」
この家の主賀川肇が、
背後から新兵衛に斬りかかった。
襲撃者の侵入に勘付いた賀川は、とっさに二階へ隠れたが、折悪しく帰宅した我が子が捕らえられたのを察知して、止む無く自ら隠れ場所を出て、単身暗殺者に立ち向かう危険を選んだのだった。
しかし、最初に斬りかかった相手が悪かった。
“人斬り“新兵衛は、
振り向きざま、反射的に男を斬り下げていた。
「二の太刀要らず」と言われる示現流の達人、新兵衛の一撃は、
肩口から腰にかけて、賀川の身体を骨ごと絶ち割っていた。
鮮やかな返り血が、新兵衛の全身に降り注ぐ。
賀川は虫の息の中で、息子の名を、何度も、何度も呼んだ。
「坊、よかったのう。ほれ、お父じゃ」
以蔵は笑いながら少年の後ろ襟をつかんで、瀕死の父の前に引き立てた。
血を流しながら斃れる父を見て、息子は放心状態のまま立ち尽くしている。
新兵衛は、子供の後ろ姿を見て、
今さらながら、自分がやったことに慄然とした。
突然、地面がなくなってフワフワと宙に浮いたような感覚に囚われ、激しい目眩と吐き気を覚えた。
以蔵の妙に浮かれた声が、くぐもって聴こえる。
「今日はもう遅いき、お父は寝るそうじゃ。ほれ、坊にお休みを言うちゃり」
以蔵は、何か聞き取ろうとするように、倒れた男の口元に耳をよせた。
「ん?なんじゃ?ふん。ほう、ほう」
数度うなずいて、それから、男の顔をマジマジ見つめる。
「おんしゃ、滑舌が悪うていかん」
以蔵は立ち上り、無造作に賀川の心臓を突き刺した。
そして、躯に刀を突き立てたまま息子に向き直ると、満面の笑みを浮かべた。
「まっことえずい寝相ぜ。こがなとこで、行儀の悪いお父じゃのう?」
新兵衛の口から、無意識のうちに叫び声が漏れていた。
「見っな!」
少年の身体を引き寄せ、その目を覆う。
暗殺部隊の主犯格、伊舟城源一郎は、子供など意にも介さず、
「ふん、天誅じゃ」
と嘯く。
「この男は、千種有文の知恵袋で、永らく二人で姦計を巡らせてきたんじゃ。今もまた、宮中に二嬪を復帰させようと画策している。死んで当然じゃ」
二嬪とは、すなわち孝明天皇の後宮に仕えた二人の女官、
少将内侍今城重子(千種有文の義妹)と
右衛門内侍堀河紀子(岩倉具視の妹)のことで、
伊舟城ら尊王攘夷派からは、
内大臣・久我建通、
左近衛權中将・岩倉具視、
左近衛權少将・千種有文、
中務大輔・富小路敬直とともに
「四奸両嬪」と呼ばれ、宮中における公武合体派の枢軸と見なされている。
彼女たちは岩倉らに協力して、皇女和宮の降嫁を推し進めたため、朝廷内の反対勢力から排斥され、前年(文久2年)の七月に宮中を追われていた。
仲間のひとり萩原虎六が、皆の顔を見回した。
「さて、これからどうする?」
伊舟城は無表情のまま、抜け殻になった賀川を見下ろした。
「知れたこと。奴らの目を引くように、この躯を晒す」
以蔵が刀の血を拭いながら、肩の凝りをほぐすように首をぐるぐる回した。
「このまま担いで行くわけにもいかんき、ここでバラして去のう」
「あっちせえ行ってなせ」
新兵衛は、少年の手を引き、部屋の外に連れだすと廊下へ座らせた。
「一時此処い座っちょきなせ」
少年はまるで魂が抜けたように、ペタンと床に膝をついた。
新兵衛が部屋に戻ると、そこには更におぞましい光景が展開されていた。
以蔵が何か心配事でもあるように血まみれの顔をしかめている。
「一橋公ともあろうお方に送るがじゃき、尾頭つきやのうて失礼にあたらんろうか?」
伊舟城が賀川の髷を切りながら笑い飛ばした。
「ははは、岩倉と千種にも送ってやらにゃならんから、我慢してもらう他ないな」
辺り一面、血の海の中、伊舟城、以蔵、萩原らは、賀川の遺体をバラバラに解体していた。
「ほうじゃの。祝事でもないき、固いことは言わんか」
以蔵が新兵衛の顔を見てニタリと笑う。
新兵衛は深い闇に落ちていった。
「うわぁああああぁぁああああ!!!」
そして、自分の叫び声で長い悪夢から覚めた。
「また、あん時の夢か」
まだ手にべっとりと付いた血の感触が生々しく残っている。
息が苦しい。
新兵衛は、少しずつ息を整え、ようやく現実を認識した。
ここは、追手を振り切り、辻君の手引きで逃げ込んだ出合茶屋の一室だ。
隣で眠っていた辻君が、新兵衛の額に浮かぶ汗をそっと拭いた。
「どうしたの?うなされてた」
「い、いや、なんでんなか」
ここ最近、新兵衛は、ずっと「あの時」の悪夢に苛まれていた。
文久三年二月一日。
分解された賀川肇の身体は、右腕が千種邸に、左腕が岩倉邸に投げ込まれた。
伊舟城源一郎らが「贈り物」に添えた書状には、
「これは国賊、賀川肇の腕である。二嬪が復帰するという噂が本当なら千種も必ず同じ目に合わせると伝えよ」
と言ったことが書かれていた。
更に、当時一橋慶喜が宿泊していた東本願寺の門前には、賀川の首が晒された。
こちらにも、封書が添えられており、近藤勇らの話題にも上った老中格小笠原長行と、大目付の岡部長常、沢勘七郎宛てとなっている。
脅迫文に曰く、
「速やかに攘夷の期日を決め、『幕府の口にする攘夷など口先だけではないか』という世間の疑惑を払拭しろ。些少ながらこの首を攘夷の生贄として献ずるので、一橋殿にもご披露願いたい」
この後、千種有文は、血なまぐさい政治から手を引き、隠遁生活を選んだ。
脅迫は、少なくともある程度の効力を発揮したと言える。
しかし新兵衛は、京での苛烈な日々、狂気に満ちた生活に疲れ切り、もう耐えられなくなっていた。




