人斬り新兵衛の憂鬱 其之壱
壬生浪士組屯所、八木家の母家。
「なんや離れの方は朝からバタバタしたはりますなあ?」
菱屋の借金取り、梅が、鏡台の前で寝乱れた髪を梳りながら、朝陽の射す障子の方にチラリと目を遣った。
もはや梅は芹沢鴨の愛人であることを隠す素振りもなく、ずっと屯所に入り浸っていた。
「昨日の騒ぎの件だろう。随分派手にやられていたようだからな」
芹澤が続きの間を開け放つと、そこには副長助勤の平間重助、平山五郎、野口健司、佐伯又三郎らが遅い朝食を摂っていた。
勿論、彼らにも襖越しに二人の会話は筒抜けである。
「近藤や土方の吠え面を拝みたかったもんだぜ。なあ?」
芹沢は、味噌汁を啜る平間の顔を見て同意を求めた。
「壬生寺の裏にあるやまと屋で隊士一人が腕を砕かれ、そのあと屋敷の門前でも一人斬られたらしい。あれでは我々の手前、捨て置くわけにもいくまい」
平間は肌襦袢に湯文字姿の梅に気づき、目のやり場に困りながらボソリと答えた。
芹澤は愉快そうに鉄扇を扇いだ。
「やれやれ、使えねえなあ。土方のバカが、十把一絡げに召し抱えた馬の骨どもときたら」
平山五郎が忌々し気に箸をバンと膳の上に置いた。
「笑い事じゃありませんぞ。そんな話が外に漏れれば、我々の面子にも傷がつくんだ。なあ?平間さん」
「ん?あ、ああ」
平間は椀を持ったまま、うわの空で返事をした。
彼は件の浪人に刀を突きつけていた町娘の事を考えていた。
以前、壬生寺の境内で、仏生寺弥助に襲われていたのも同じ娘ではなかったか。
いったい、あれは何だったのだろう?
「皆さんは、下手人を召し取りに行かんでよろしおすのか?」
浪士組の体面など関係ない梅が、涼しい顔で皆を見渡す。
その声で、平間の思考は断ち切られた。
「たしかに。それもそうだ」
立ち上がろうとする平間の頭を、芹沢がグイと抑えつけた。
「くだらねえよ。なんでこの俺様が奴らのケツを拭いてやらなきゃならねえんだ!二束三文の素浪人なんぞ、いちいち構ってられるか」
「とは言え、こんなところで大の男が面突き合わせてボーっと座っていても…」
平間の反論を、芹沢は途中で遮った。
「やまと屋って言やあよ、佐伯」
それまで部屋の隅で話の成り行きを見守りながら飯をかき込んでいた佐伯又三郎が顔を上げた。
「はあ」
「おまえ、同じような名前の大店の話をしていたな」
「あ、へえ。葭屋町にある生糸問屋ですな。随分儲けとるはずでっけど、財布の紐が固うて手こずっとります」
早速、押し借りの相談である。
「叩いても、叩いても、あくどい商人が後を絶たん。困ったもんだ」
芹沢がニヤニヤしながら首を振った。
「うち見ながら言うのやめよし」
梅が手にしていた紅筆(化粧道具)を芹沢に投げつけた。
武士や町人たちは、物価が上がるたび商人があくどい商売で暴利を貪っているなどと騒ぎ立てたが、商家の名誉のために、ひと言つけ加えておく。
問題の日米修好通商条約による函館 、新潟 、横浜 、神戸 、長崎の開港以降、大量の金銀が国外へ流出したことによって、貨幣は質の低いものに改鋳された。
すると、貨幣自体の値打ちが下がったことによって、相対的に物の値段が上がることになる。
加えて、国内で生産される物品(例えば生糸)も当然輸出されることになるから、国内の供給量が減り、商品の価格が上がる。
あくまで一般論ではあるが、インフレはこの二重苦による必然とも考えられた。
つまり、一概に商人ばかりを責めるのも理不尽な話だった。
が、とにかく目の前にいる誰かを悪者にしないと収まらないのが人間の性というものだろう。
「はあ、しょうがねえ。筆頭局長直々、その生糸問屋に乗り込んで、馬の骨どもの食い扶持を稼いでやるとするか。平山、俺ってお人好し過ぎるかなあ?」
「もうちょっと、下の者に厳しくても、いいかも知れませんなあ」
ガハハハハと笑い合いながら二人は腰を上げた。
「お前ら、早いとこ食っちまえよ。一仕事終えたら帰りに一杯引掛けようぜ。お梅、おまえも付き合うだろ?」
「こない辛気臭い部屋に独りおってもしゃあないどすやろ。なにより、うちは債権者どすさかい、そのお金の一部は頂戴せなあかんし」
まるでシャイロックとマクベス夫人が同じ舞台に立っているような、質の悪いシェイクスピア喜劇の一幕である。
古今東西、女性の支度というのは長いと相場が決まっているが、
ずいぶんゆっくりと出掛けた永倉たちから、遅れること、さらに一刻半、芹沢達はようやく八木家の門を出たのだった。
追腹を切る:いわゆる殉死のこと。本来は主君が死んだ後を追って切腹すること。




