浅き夏 其之壱
翌日、京は梅雨の晴れ間だった。
壬生村、八木邸。
朝。
八木家の離れの濡れ縁には、原田左之助が俯せのままグンニャリ伸び切っていた。
そのすぐ脇では、通い女中の祐が、何やらガタガタと障子を取り外している。
「…っじらんねえ…」
「え?」
鶏の声に混じって、原田がボソリと呟くのを聴いた気がして、祐が振り返った 。
「信っじらんねえ…あwwwwwwww!信じらんねえ暑さだ!信じらんねえ!クソッタレ!」
「やかましい!そんなとこでゴロゴロされとったら邪魔や!」
祐は外した障子を縁側の戸袋に立てかけると、原田を追い立てるように手を払った。
「なんだよお。俺の穏やかな朝のひと時を奪わないでくれよお」
「大の男が、朝っぱらから縁側で伸びとんのが視界に入ったら、うちが心穏やかでおれんのや!こっちはもう一刻も前から働いとんねん!忙しいの見たらわかるやろ!」
原田はダラダラと流れる額の汗を拭った。
「…けどよお、俺ぁこれでも伊予の産まれなんだぜぇ?暑いのは結構得意なつもりだったが…なんなんだ、この蒸し暑さはよお?あ~畜生!暑い、暑い、暑い、暑い、あ~ついったらありゃしねえ!」
「グダグダグダグダ暑苦しい声で、うるっせえつーんだよ!」
六畳間で着物の帯を締めていた永倉新八が、飛んできて、原田を蹴り飛ばした。
「オラ!立て立て!出かけっぞ!平助もだ!土方さんの言ってた土井とかいう浪人を引っ捕まえにゃならねんだからよ!」
永倉は庭に居た藤堂平助にも声をかけた。
「行きたいのは山々なんすけど、こいつの型稽古、まだ格好ついてないんスよねえ…」
藤堂は少々うんざりした様子で、木太刀を振るう馬詰柳太郎を親指で差した。
永倉はバカバカしいという風に手を払った。
「習うより慣れろだ。おまえも付いて来い、柳太郎」
「柳太郎!あんた、ええ加減ちゃんとせな、いつまで経っても親離れ出来へんで!」
祐が障子を壁に立てかけながら発破をかけた。
「え?そうなの?お前、女タラシのくせに、親父さんにもまだ甘えてんのかよ?」
藤堂が意外そうな顔をして尋ねると、
「いえ、別にそんな…」
柳太郎はモゴモゴと口ごもりながら、相変わらずのヘッピリ腰で巻藁に打ち込みを始めてごまかした。
祐はその様子を眺めながら、藤堂に肩を寄せた。
「そういうのとは違うんやけど、あの子、お父上のこと怖いみたいで」
「え!優しそうな親父さんに見えるけど」
藤堂は、父、信十郎の、まるで眠っているような細い垂れ目を思い浮かべながら宙を睨んだ。
話に置いて行かれた原田が祐の着物の裾を引っ張って気を引く。
「家長たる者さあ、常にキンゲンジッチョクたらねばならんのよ。俺なんかさあ、息子が出来たらさあ…」「まず起きてから言え」
出かけるはずの永倉も話に引き込まれて胡坐をかいた。
「イマイチピンとこねえなあ。なんでそう思うのさ?」
祐は人差し指を顎に当てて首を傾げた。
「う~ん、何て言うたらええんやろ…普段の何気ない会話とか…見とったら分かるねん。怖い言うても、厳しいとか、そんなんと違うねんけど…とにかくうち、あの馬詰の親父さんは、好きになれんわ」
原田は少しでもこの話を引き延ばして出掛けるのを先送りしたい。
「いやでも、俺だったらさあ、やっぱ息子にはキビシク接するよね…あ、お~い、柳太郎、手え抜くなよ」
「どの口が言うてんねん」
祐があきれ顔で障子を二枚抱えて出ていくと、入れ違いで秀二郎の母、八木雅がやってきて、また原田を追い立てた。
「左之助はん、そこ退いとくれやす。邪魔やし」
「なになに?さっきから。なにが始まんの?」
原田は寝ころんだまま、ゴロゴロ転がって六畳間に避難して、
永倉を気味悪がらせた。
「てめ、こっち来んな!そーでなくても、このまとわりつくような湿気でイラついてんのに、おれぁ男にくっつかれんのが何より不快なんだよ !」
「ええかげん暑いさかい、簾戸に換えますのや」
雅も祐が立てかけた障子を担いで運び始めた。
簾戸とは葭で作った夏用の障子だ。
今でいうブラインドや網戸のようなものである。
庭に木太刀を手にした井上源三郎が姿を現し、雅に声をかけた。
「おはようございます。おお、簾戸ですか。いいですなあ、涼し気で」
「あら、井上さん、おはようさんどす。涼し気て、見とおみ、コレ」
両手が塞がっている雅は顎で原田を指した。
井上はチラリと原田に目をやり、
「もとい…暑苦しい事この上ないねえ、折角の梅雨の晴れ間なんだ。おまえさんも柳太郎を見習って稽古したらどうだい」
と、さっそく素振りを始めた。
「やなこった。あ~クロ!そこは俺の場所なんだからどけよ!」
原田は再び冷たい板張りの濡れ縁へ這っていき、
いつの間にか縁側に寝ていた小猫を押し退けた。
「見苦しい!」
喝を入れたのは、井上の後ろからついてきた八木家の長男、秀二郎だった。
「お!ヒデ、朝っぱらから、どうしたそのカッコは?」
秀二郎は、袴の股立ちを取っている。
一見、ひょろりと華奢に見えるが、この暑さにもかかわらず、襟元をきっちりと合わせてケロリとしていた。
「今日は井上先生に稽古をつけてもらうんです」
どうやら昨日の一件で、剣術に身を入れる決心をしたらしい。
それでも原田は起き上がろうとせず、秀二郎をトロンとした眼で見上げた。
「ハー、朝から張り切っちゃって結構なこったけどさあ、こりゃ只事じゃねえぞヒデ。おめえ、何ともねえのかよ?」
「だらしないなあ。壬生の夏は私が生まれる前からこうです!」
秀二郎と井上は並んで素振りを始めた。
井上は秀二郎の構えを見ながら、
「あたしもこの秀二郎から聞いたんだがね、京ってのは四方を山に囲まれてるせいで、風通しが悪くて湿気が溜まるんだそうな」
と、覚えたての含蓄を披露する。
「ふーん、なるほどねえ」
永倉は、もうすっかり腰を据えて、見廻りの事など頭から零れ落ちてしまったらしく、膝では原田に追いやられたクロが気持ちよさそうに眠っていた。
「しかし理屈が分かったところで、この暑さになんら変わりはねえ」
原田のダラケっぷりには、つける薬がなかった。
秀二郎の振るった木太刀がビュッと小気味よく風を切った。
「だいたい、夏本番はこれからや。まだまだこんなもんやないですよ」
「…げ~…」
二枚重ねの簾戸を抱えた祐が戻ってきて、秀二郎と井上を見るなり頬を膨らませた。
「あー!ズルい!源さんは、うちの先生やのに!」
「しゃあないやろ。師範役の斎藤先生が居らんのやし」
秀二郎は少しバツが悪そうに応える。
「…てかさ、斎藤のやつ、どこ行ったの?」
誰にともなく尋ねる永倉の前に、雅が抱えてきた簾戸をドンと置き、額の汗を手拭いで押さえた。
「ハ~あつ…ついさっき、沖田はんらと連れ立って出掛けはりましたえ。永倉はんも、こんな処でゴロゴロしたはってよろしおすのか」
祐も仁王立ちしてうなずく。
「あんたらも、なんやら言う土佐の浪人を捜さなあかんのと違うんか?」




