A Love Bizarre Pt.2
「お母はん、お化け!」
以蔵を見た雪が泣きだして、母親の着物の裾を引っ張った。
「…確かに。なんだありゃ」
「なるほど。分かりやすく怪しいな」
安藤と沖田は、気の利いた雪の例えに感心しながら、考えていたよりも事態がひっ迫していることを肌で感じていた。
「お秩さん、残念ですがお雪ちゃんを連れて引き返してください」
「え、ええ。でも沖田さんは?」
「大丈夫です。こっちは人数も多いし」
雪が沖田の膝にすがって駄々をこねた。
「そんなんいやや!」
「ごめん。またあとで、診療所の方に顔出すからさ」
その説得に、安藤が優しく口を添えた。
「そうさ。おじちゃんもキンツバを持っていくよ。な?」
「ほんま?」
「ほんまホンマ!」
雪が納得したところで、沖田は秩の背中をそっと押した。
「境内を抜けてください。あっちには土方さん達もいる」
「承知しました。お二人とも、どうぞご無事でお戻り下さい」
言い置いて秩は雪を抱き上げ、小走りに引き返して行った。
沖田は秩が心配そうに何度も振り返りながら南門に消えていくのを見届けると、横目で安藤を睨んだ。
「…キンツバとか、安請け合いしていいんですか?」
「もちろん、払いは君だよ」
「チャッカリしてんなあ」
「しかし…」「ええ」
安藤が途中で飲み込んだ陰鬱な予測を、沖田も同じく危惧していた。
なぜあんな格好をしているのかはともかく、立ち姿を見れば、あの男が相当な使い手であることは疑いようがない。
男は左手で加禰のか細い腕をガッチリと掴み、
さりげなくブラリと垂れたもう一方の手は、それでいて、いつでも抜ける位置にあった。
下手に動いて勘づかれれば、ここから彼らの元へたどり着くまでに、あの男なら造作もなく抜き打ちに三人は切り下げるだろう。
何故なら、わざわざ一度に六人を相手にする危険を冒す必要など、何処にもないからだ。
実際、勝海舟の警護を任された時の以蔵は、難なく三人の刺客を退け、うち2人の命を奪っていた。
男を取り囲む浪士たちの中に、見知った顔が混じっているのを見て沖田は歯がみした。
「…秀二郎さんまで」
「ええい!こんな時にかぎって、固く結んじまった!」
安藤の方も肩から降ろした弓袋の口紐を焦れったそうに解きながら、恨めし気に毒づいた。
そして一方、尾形俊太郎は、岡田以蔵と向き合ってみて、いささか後悔していた。
自分がどうにかこの男に隙を作れたとして、
果たして残りの三人の腕で仕留められるだろうか。
彼らでは少し役不足だったかもしれない。
「なんなが?わしゃ、おまんらなど知らんちゃ」
行く手を阻むように立ちふさがった四人を、以蔵は迷惑そうに睨め回した
「我々は浪士組の者で、私は肥後の尾形と申します」
「肥後の尾形ち、児雷也と同じやか!わしゃアレが大好きでのう…」
児雷也というのは講談などで人気のあったヒーローもので、肥後の尾形周馬弘行という主人公が妖術を駆使して戦う冒険譚である。
「そうですか。私も子供のころ、よく本で読みました」
実は尾形の本名は三嶋といって、案外こんなところから変名を思いついたのかもしれなかった。
脱藩した浪士が国許の追跡を逃れるため姓名を偽ることなど別段珍しい事ではなかったから、浪士組においても、それには暗黙の了解があった。
「ほうですかよ!こがな所で同好の士に会えるらぁて、嬉しいにゃあ。けんど、わしゃ初めて会う人と話すのは苦手ですき」
「ですが、浪士組に御用がおありとか?お役目上、我々はあなたが何者なのか確かめねばならんのです」
「こりゃいかん、茶屋で名乗るのを忘れちょりました。わしゃ土佐の土井鉄蔵ちゅうもんです」
同じく、この「土井鉄蔵」も岡田以蔵がよく使った変名である。
尾形は、努めて丁重に”土井鉄蔵”の真意を引き出そうとした。
「土井殿、ご忠告申し上げるが、この辺りで、お国訛り丸出しで浪士組を嗅ぎ回られるのは、あまり利口な振る舞いとは言えませんよ?」
「尾形さん、そりゃあ、誤解云うもんぜえ。わしゃこの娘さんにちっくとものを尋ねちょっただけやか。用のあるがは女です。お仲間におらんかよ?ほりゃもう絶世の美女ぜ」
「浪士組の屯所に、女など居る訳ないでしょう」
思わず口を挟んだ秀二郎は、自分の声が上擦るのを聞いた。
「ほうですかね。けんど浅葱色のダンダラと歩いちゅうのを見た者がおりますき」
尾形は相手を刺激しないよう慎重に言葉を選んだ。
「ほう。それなら隊士の愛人だろうか。羨ましい同僚もいるものだな。あいにく新参の私は、寡聞にして存じませんが」
その間、彼の全神経は、ずっと以蔵の右手に注がれていた。
「やき、屯所へ行って直接聞くが」
しかし、この駆け引きが理解できない奥沢は、小馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
「横恋慕に幸せな結末は望むべくありませんよ。ましてや恋敵が会津お預かりの身となれば、勝ち目などない」
「あやかしい。おまさんらと付き合うらあて泥舟に乗るようなもんですろう?」
奥沢は、その言い草についカッとなった。
「聞き捨てならんな。そいつはどういう意味だ!」
加禰が、ビクリと震える。
以蔵の紅を引いた唇が不気味に吊り上がった。
ヒリヒリするような緊張感が走る。
「怒りなや。ほんの京雀の噂ちや。わしが言うたがやないき」
明らかに挑発している。
奥沢や秀二郎の未熟な情緒では、この膠着状態も長くは続かないだろう。
「気にしな。ほれ、まぎるき、退いてつかあさい」
抜くべきか。
尾形は迷った。
「クソ!さっきからいったいナニ話し込んでんだ?」
ジリジリしながら、五人の様子を伺っていた沖田の視界の隅に、人影が映った。
「…あれは」
その、まさに同じ刻。
緊張は極限に達し、
尾形の利き手がピクリと動く。
刹那、
「私に用があってきたんでしょう?」
彼は間近に、涼やかな女の声を聞いた。
「おお、滝夜叉姫じゃいか!」
人斬り以蔵が、甲高い嬌声をあげる。
「…お琴さん」
沖田は、やっとそれが誰なのか分かった。
滝夜叉姫、中沢琴が、縞木綿の小袖姿で、何時からか八木家の門前に立っていた。
「誰それ?ていうか、なにその格好?」
琴はズカズカと以蔵に近づいて、その顔を覗き込んだ。
「えいろう?想い人に会いに行くがやき、めかし込んで来たつもりじゃ」
気安げに話しながら、以蔵は加禰を突き放し、刀の鯉口を切った。
カチリ。
尾形らはギョッとして刀の柄に手をかけ、身構えた。
「呆れた。嫁入り前の娘が下着姿で往来を歩くなんて、端なくてよ?」
琴は以蔵の刀の小尻にそっと手を置いて抜刀を封じると、それから八木秀二郎に目配せした。
「え?」
こんな時だというのに、秀二郎は琴の相貌とその吸い込まれそうな眼に思わず魅入ってしまった。
しかし。
「離れて」
その一言が、まるで全身に掛けられた魔法を解いたように、
加禰の手を引っ掴み、駆けだしていた。




