魔窟にて 其之弐
「御免ください」
中沢琴は、瓦屋の木戸を叩いた。
下女と呼ぶには少し憚られるような、上品な初老の女性が扉を開け、若い女の客を見て少し驚いた顔をした。
八木源之丞の話に出てきた楢崎貞である。
「どちら様どすか?」
「私、清河八郎の使いで中沢琴と申します。安積五郎様にお取り次ぎ頂けますでしょうか」
「…少々お待ちを」
貞は一度奥に引っ込んで行き、しばらくして再び出てくると琴を招き入れた。
「お待たせしました。どうぞ、お入りやす」
家屋は典型的な京町屋で、琴は通り庭と呼ばれる土間から、表通りに面する「見せの間」に通された。
もっとも、間仕切りの襖は開け放たれており、奥では四、五人の若い浪士が固まって賽子賭博をしているのが丸見えだった。
脱藩した攘夷志士を手厚く庇護している五郎兵衛老人も、さすがに彼らとの同居は我慢出来なかったらしく、この家は若者たちの男所帯になっているらしい。
そこで、貞が雇われて家事を任されているのだった。
家の中は、浪士らの周辺に立ち込める紫煙が土間にまで漂っていたが、琴の知る煙草とは違う独特の香りがした。
トロンとした目の大男が、大義そうに立ち上がって、琴の方にのっそりと歩いてきた。
「お嬢ちゃん、すまんが、アサカち男は此処にはおらんがやき」
「江戸の、安積五郎様です」
琴は、もう一度確かめるようにその名を告げた。
「…ほがな奴はおらん言うつろう」
男の表情から察するに、安積のことを明らかに知っている。
琴は少し斜に男を見上げながら、唇の端を吊り上げた。
「じゃあ、その”いない安積さん”に伝えて。清河さんの言伝を持って来たと」
「おまん、おもろい女じゃのう。おらん者に伝えようがないやか」
そこへ、徳利を手にした出っ歯の男が、奥の座敷からクシャクシャの総髪を掻きむしりながら近づいてきた。
「まちや。早瀬さん」
その男はヌッと首を突き出し、琴の首筋に鼻を寄せた。
「姉ちゃん。ええ匂いじゃのう?」
「そう?ありがと。けど、あなたからはドブネズミの臭いがするから、少し離れてくれるかしら」
琴は、ぐっと顎を上げ、冷ややかな視線で男を見返した。
琴の挑発に、なぜか早瀬と呼ばれた大男がオロオロと取り乱し始めた。
「お、おい。おまん、以蔵に…」
岡田以蔵。
それは、あの阿部慎蔵が二度までも殺戮の現場を目撃した、
土佐の”人斬り以蔵”だった。
しかし以蔵は、琴の視線を受け止め、気味の悪い笑みを漏らした。
「げに、はちきんじゃあ。姉ちゃん…安積さんは此処にはおらんき、用件を言いや。わしが伝えといちゃる」
「本人に直接話すわ。どこに行けば会えるの?」
「さあのう。忙しいお人やき、何処におるやら、さっぱり分からんちや」
奥の間で博打をやっている男たちから、賽子の出目に歓声があがる。
「まっこと、やかましいのう」
以蔵はわざとらしく顔をしかめた。
「では、また来ます」
身を翻した琴の腕を、以蔵の節くれだった指が捕らえた。
「ちっくと此処に居っていきや」
琴はとっさに反対の腕で以蔵の手をひねろうとしたが、
容易くそちらの腕も押さえつけられた。
「おうおう!」
以蔵は後ろに控えている早瀬と呼ばれた大男に、目を見開いておどけて見せた。
「はしかい姉ちゃんぜ!ゾクゾクするねや!わしゃあ、あのフニャフニャした京女ゆうがは、どうも好かんき」
そして、もう一度琴の耳元に口を寄せた。
「どうじゃろ?ここで安積さんを待ちゆうなら、わしが暇つぶしに付き合うちゃるけんどのう?」
以蔵は、睨みつける琴の顔に、額を突き合わせた。
「お!怒った顔も可愛ええじゃいか」
そこへ、ガラガラと玄関の扉の開く音がして、誰かが帰ってきた。
琴は両腕の自由を奪われながら、身体をひねって後ろを振り返った。
入口に立っている男の右眼には、虎の象嵌を施した刀の鍔が、眼帯代わりに掛けられている。
清河八郎の盟友、安積五郎だ。
琴はその眼帯に見覚えがあった。
安積は、清河が手紙に書いた通り、ダルマを思わせるような、ずんぐりとした猪首の男だった。
「岡田さん、なにをやっている」
野太い声で訊ねる。
以蔵は残念そうな顔で、琴の腕を掴んでいた手の力を緩めた。
「安積さん、間ぁが悪いぜよ」
「この方は?」
安積は以蔵の問いを無視して、琴をジロリと見た。
「清河さんの使いです」
琴は以蔵の手を振り解きながら、自分で応えた。
安積は琴に視線を戻し、なにか思い出すように顔をしかめた。
「清河の…そういえばお玉が池の道場で何度かお会いしましたな」
「はい。中沢琴と申します」
「そうだ、確か利根の剣法道場の中沢良之助殿の妹さん」
「姉です」
「いや、失礼。だが、ここは若い娘さんがひとりで来る様な場所じゃない」
「用が済めば帰ります」
琴は挑むように安積を見返した。
「…用件を伺いましょう」
「これを」
琴は懐から出した清河の手紙を安積に手渡した。
「これは…清河から?」
「ええ。浪士組が京に上る道中、大津宿で託されました」
安積は無言で手紙を開き、目を走らせた。
「田中河内之介に後事を図り、再起を期せ。彼の人、かつて従六位の官位を授かり、京の人脈に通ず…ふむ」
安積は琴の前で、最後の一行を読み上げた。
二人の横で徳利の酒を煽っていた岡田以蔵が顔を上げた。
「田中河内介なんちゅう男はもう居らんぞね」
「なに?」
「とっくの昔にクタバっちゅう」
安積と琴は、同時に以蔵を振り返った。
「おえおえ、二人して、そがい怖てえ眼ぇで睨むこたあないろう。別にわしが斬っちゅう訳やないき」
「そうは言わん。だが、誰にやられた?」
安積は問い詰めるような口調で以蔵を睨んだ。
「ほがなこたあ知らん。ただ、あの寺田屋のドタバタがあった翌日、小豆島の岸に、首を斬られた土左衛門が上がったち話を聞いちゅう。後ろ手に縛りあげて、足枷まで嵌められちょったゆうがやき、まっこと不憫なことぜ」
水死体が、なぜ田中河内之介であると特定されたのかは定かではない。
しかしその遺体は、完全に自由を奪われた状態で斬られており、そしてそのまま、船上から播磨の垂水沖に打ち捨てられたと見られていた。
以蔵は、それをやったのが自分でないことが、さも残念そうだった。
「薩摩っぽめ。酷いことを」
安積の残された瞳には憎悪がたぎっている。
「ほうじゃのう。仲間ち思いゆう人間に斬られるがは、まっこと、口惜しいもんじゃろのう」
同情深げな台詞とは裏腹に、その口元には残忍な笑みが張り付いている。
安積は、以蔵の態度を心から嫌悪している様子だったが、すっかり途方に暮れて言い返す気力も失せていた。
「…田中河内之介はすでに死んでた…それも寺田屋で事件のあったすぐあとに…」
琴が小首をかしげた。
「清河さんは、そのことを知らなかった?」
「多分。田中様は首を晒された訳じゃない。殺した方も後ろめたい事情を抱えていた。つまり秘密裏に、闇に葬られたんだ。江戸にいた清河が知らなくても無理はない」
以蔵は、楽しそうに二人の会話に加わった。
「わしゃあ、ある男から、寺田屋騒動のあと、薩摩は太い金づるを掴んだち聞いちゅう。清河は、それをアテにしちょったんじゃいか。ほいでも、そん金は今じゃあ島津が握っちゅうぜ」
琴は、足が震えるのを感じた。
「その話は誰から?」
動揺が顔に出ないよう、必死で自分を抑える。
それこそ、清河八郎が探していた闇資金だ。




