千里を駆ける天馬 其之壱
輪違屋主人はあまりいい顔をしなかったが、結局、中沢琴は今しばらくの間、輪違屋に居ることになった。
もとより定住する場所などなかったし、浪士組が屯所を構える壬生村にも近く、何かと都合がよかったのだ。
「明里!」
遊女たちが起居する座敷の襖を荒っぽく開けて、花香太夫が入ってきた。
部屋の隅で本を読んでいた琴、つまり明里は、物憂げに顔を上げた。
「はい」
「あんたなあ、今日うちのお座敷、手伝うて」
「ええ、分かりました。角屋さんですか」
「そうや。ほな、すぐ支度しいや」
「じゃあ、この間いただいた新しい簪を…」
「そんなん、かまえへん。どうせ土佐の田舎侍や」
つんと澄ました顔で、花香は部屋を出て行った。
琴は輪違屋に来て以来、随分この花香にこき使われていた。
しかし、彼女は誰に対してもこうだったから、琴に対して何か含むところがある訳でもないらしい。
「明里も大変どすなあ」
廊下でこのやり取りに居合わせて、気遣いを見せたのは、輪違屋で花香と二枚看板を張る桜木太夫である。
初見でちょっとした因縁ができたものの、その後はお互いに謝罪し、感情のもつれが尾を引くことはなかった。
桜木は元来穏やかな性格で、最近は琴とも少し打ち解け、むしろ彼女の方が花香より優しく接してくれるくらいである。
「まあでも、可愛がってもらってますから」
琴は気にする風もなく、いそいそと化粧を始めた。
「土佐のおサムライは、言葉遣いは荒ろおすけど、皆さんええおひとえ」
桜木は花香の暴言をやんわり訂正した。
「太夫にもお知り合いが?」
「うちは長州屋敷の方からお呼びがかかることが多おすさかい、たまに土佐のお客様もご一緒しやはるなあ。今日は坂本様が来はるらしいけど、面白いお方え」
「ふうん、そうなんですか」
琴は期待していた名前の誰とも違ったので、気のない返事をした。
琴が支度を済ませて玄関に行くと、
キセルを持った花香太夫がすでに仁王立ちしていた。
「明里!早よ!」
琴を見るなり、手にしたキセルを禿にポイと渡し、下駄を履いている。
関東育ちの琴は、この気風のいい先輩が嫌いではなかった。
お座敷が入れば、何かにつけて琴に声をかけるのも彼女なりの心遣いで、要するに、京都人にしては珍しく姉御肌というか、面倒見がいいのだ。
もっとも、花香にも打算がなかった訳ではない。
明里、つまり中沢琴は、愛想もなく、芸の方も今一つではあったが、とにかく容姿だけは廓でもちょっとした噂になるほどだったので、客からの受けはすこぶる良かった。
ライバルたちを蹴落とすには力強い味方と言うわけだ。
花香太夫が琴らを引き連れて角屋に行くと、
お座敷では6人の客が輪になって、すでにしたたかに飲んでいた。
花香と明里、そして二人の鹿恋が現れると、わっと歓声が上がる。
「傾城じゃ」
「こがな豪勢な宴会は、はじめてぜよ」
ほとんどは薄汚れた木綿の半着と袴姿の若者で、おそらく土佐の脱藩浪士といったところだろう。
角屋のような高級店とは縁遠そうな者ばかりだ。
「やっぱり同郷の者と飲むがは、気兼ねがいらんき、ええもんぜ」
その中に一人だけ、絹の着物に仙台平の袴を着けた浪士が、落ち着き払って盃を空けている。
洒落た格好をしている割に、頭はチリチリの総髪で、髪紐を解けば綿飴のようになりそうだった。
やはり20代後半ほどの若者だったが、おそらく彼が今晩のスポンサーだろう。
その隣には今晩の主賓と思しき、がっしりとした大柄の男が座っている。
「けんど、坂本。ここは例の浪士組の屯所も近いき、ちっくとマズうないろうか」
「那須さん、太い体して、細いこと言いなや!やき、ええがじゃ。灯台下暗しちゅうじゃろ」
坂本は立ち上がると那須と呼んだ男を引っ張って、上座に座らせ、肩をポンポンと叩いた。
「おまんは、まっこと肝が太いのう」
那須は坂本の顔を見上げ呆れ返っている。
席次から言って、天神の琴が坂本につくことになった。
「天神の明里と申します」
花香と琴が上座に座ると、また浪士たちが騒いだ。
「こがな綺麗な女子に酌をしてもらえるち、京はええ処じゃのう」
「アハハ、おまんら、ほたえな」
坂本は上機嫌で琴の酌を受けながら話を続けた。
「知っちゅうかえ、海軍操練所の件が本決まりになったがよ。これでようやっと日本にも本格的な海軍ができるぞね。今日はそのお祝いやき。わしの驕りじゃ」
「さすが龍馬、才谷屋のボンボンじゃ!」
浪士のひとりが囃し立てた。
「海軍にゃあ金がかかるき、わしゃ勝先生のお使いで、暫時越前の三岡さんに金の無心に行かにゃあいかん。いわば、ご公務ぜよ。つまり、コソコソ隠れゆうことは、なんもないちや!のう?明里」
琴は、あまりに明け透けな坂本に圧倒された。
「ご機嫌ですね」
「ほうじゃ。こがな美人に囲まれて気分が悪いわけないやか。ほれ、おまんも飲まんかえ」
坂本は明里の盃に並々と酒を注いだ。
「まっこと、忙しい人でのう…」
那須が坂本の活動について花香に話すのを、琴は耳をそばだてて聴いていた。
海軍操練所とは、幕府の肝いりで、いわゆる海軍士官学校とドック(造船所)を併設した機関を神戸港に創設しようという壮大な構想である。
この坂本龍馬という土佐の郷士は、清河八郎から教えられた各国の要人リストには名がなかったはずだ。
軍艦奉行勝海舟の片腕となって東奔西走し、遂には海軍創設の足掛かりを作るに至ったというのだから、一廉の人物に違いなく、つまりは新進気鋭の活動家ということなのだろう。
彼がこの後やり遂げる偉業については今さら説明の必要もないと思うが、何も知らない中沢琴から見ても、身一つで世の中を動かそうとする坂本という人は、才気と野心に満ち溢れていて、眩しく、魅力的に感じられた。
坂本はまるでヘタクソな芝居の批評でもするように、危なっかしい政治談義を始めた。
「大樹公は、あくまでリンカーンやテンプルと五分で談判しやあせんといかん。海軍がありゃあ、それが出来るようになるちや。あがな錆びついた大砲と、商船に毛の生えたような軍艦でアメリカとやり合おうらぁて、長州はベコノカァ(バカ)じゃ。けんど、アメリカに尻尾振って、わざわざ黒船に空けた穴を直しちゃるお上は、なおベコノカァじゃ」
「坂本様のご高見は頓知が効いたはるさかい、お頭の弱いお方が聞かはったら誤解されますえ」
花香は優雅な仕草で唇に人差し指を立てて、妖しく笑ってみせた。
「そうながか?」
坂本は愉快そうに笑った。




