苦界への入口 其之参
琴は外まで新見を送った。
また雨が降っていた。
新見は、琴が寄せた傘を断り、
「ここでいい」
そう言って、自分の傘を開いた。
傾けた傘が新見の顔を隠した。
傘の露先から滴る雨の雫が、涙のように見えた。
玄関に戻った琴は、草履を履いて店を出て行こうとする男に肩をぶつけられた。
「おっと、失礼」
男はそう言うと、非毛氈に立つ遊女を振り返る。
「また来るよ」
手を挙げる男に、遊女はたおやかに頭を下げた。
八本の簪は太夫の証である。
おっとりとした感じの、優し気な女性だ。
「おまちなさい」
すれ違う男の腕をつかんで、琴が引き留めた。
男は反射的に腕をグイと引いたが、その手は振り解けない。
「おい!なんのつもりだ」
太夫は、目の前で起きていることが理解できず戸惑っている。
琴はキッと男を睨みつけた。
「うちのお客様をコソコソ付け回すのはよしてもらいましょう」
「放さんか!」
男は歯並びの悪い口を開けて怒鳴った。
「あなた、何度もお座敷の前を行き来していたでしょ?」
「人違いじゃないのか。それとも、なにかの言い掛かりか!?」
琴は胸を反らしたまま、足元に視線を落とした。
「外は雨だというのに草履履きで登楼?コソコソ付け回すのに下駄の音は邪魔かしら?」
「女郎!なにが言いたい」
男はあくまでシラを切ったが、その正体は会津の密偵だった。
平石林之助、表向きの姿は会津黒谷本陣の厩番である。
この日は、揚屋に登楼する客らしく羽織袴を着ている。
そうする間にも新見の後姿はどんどん小さくなっていく。
平石は焦れた。
訳も分からず二人のやり取りを見ていた大夫が、とうとう割って入った。
とにかく自分の客が目の前で辱められているのを見過ごすわけにいかない。
「待ちや!あんた、うちの旦那はんに難癖つけるんか?」
「太夫、女の手も振りほどけない腰抜けに入れあげるのは島原太夫の名折れじゃないかしら」
白粉をつけたその顔に感情の動きは見えなかったが、太夫の胸元にのぞく地肌に赤みが差した。
「なんやて。もっぺん言うてみい」
太夫は琴の頬を平手で打った。
後ろに控えていた禿が、その音にびくりと震える。
琴は表情を変えない。
太夫の手は小刻みに震えていた。
彼女としては体面を保たねばならなかったが、本来、こうした事に慣れていないのだろう。
「いえ…」
琴は新見が立ち去る時間を見計らい、平石の手を放した。
「ごめんなさい。私の思い違いだったみたいです」
琴は頭を下げたが、その表情はあくまで固い。
太夫の全身から緊張が解けていくのが分かった。
二人はしばらくの間、黙って見つめあっていた。
「クソ!」
平石が毒づいた。
輪違屋に帰った琴は、挨拶もそこそこに湯を使い、大部屋に布団を敷いた。
昼間の経緯を知らない同部屋の遊女たちは、なぜ突然「天神」が現れたのか、憶測と噂をさざめき合っている。
琴は、誰とも口を聞かず、超然としていたが、気の強そうな襦袢姿の遊女が近づいてきた。
「あんたが噂の俄か天神か?」
さきほど主人から名前だけは聞かされている。
花香という太夫だった。
「太夫、そこらへんの事情は旦那さんに…」
「そんなんはええ。あんた、桜木に啖呵切ったんやてなあ」
花香太夫は愉快そうに尋ねた。
「あれは…行きがかり上というか…」
琴は説明に困ったが、花香太夫はそんな事を望んでいなかった。
「あの子が目をシロクロさせてた言うて禿から聴いたで。ケッサクや」
「はあ」
「けど、桜木も輪違屋の子や」
琴はそれを聞いて思わず目を閉じた。
「不味った…」
あれが、長州の若き指導者、桂小五郎の愛人“桜木”か。
琴は小寅から聞かされた話を思い出した。
上品で、優し気で、知性的な女性だった。
桂というのは、なかなか趣味のいい男らしい。
桜木と花香は輪違屋の二枚看板で、ライバルだった。
当然、お互いを強く意識しているし、相手を出し抜こうと競い合っている。
二人はごく普通の教養ある女性だったが、花街とはそういう場所だった。
琴は図らずも花香の溜飲を下げたというわけだ。
「あはは、面白い子やし。あんた幾つや?」
「19になります」
「あんた、うちの旦那はんのお座敷に呼んだげるわ」
花香太夫は琴の頭を軽く撫でて自分の部屋に戻っていった。
「取り入るのに随分サバ読んじゃった」
琴はひとり苦笑いして、布団をかぶった。




