苦界への入口 其之弐
善助はしばらく黙って琴の顔を見つめて、その提案について考えを巡らせた。
確かに、化粧をして美々しい衣装を着せれば、傾国の美女に化けるだろう。
「…よろしおす。ほんなら、あんたがこのお座敷を無事勤めはったら、うちに置きましょ」
顔には、足元を見られたことへの悔しさと、この場を乗り切れるという安堵の入り混じった感情が薄っすらと浮かんでいる。
「では急いで。着物、それと髪結いを」
「けど、ほんまによろしいんやろな。あんた、お座敷に上がるゆうことの意味を…」
「ええ。歌がありましたよね?『蚊屋くゞる女は髪に罪深し』わたし、そんなのはゴメンだし、身体を売るつもりはありませんから」
琴は善助の肩越しに床の間に飾られた桔梗の花を見つめながら、遮るようにピシャリと答えた。
輪違屋善助は、またあの上品な笑みを浮かべた。
「うちとこは芸を売るのが仕事どすさかい、それはあんたはんにお任せします。せやけどおぼこい芸妓は旦那はんに惚れて身体を許してまうのが廓の常や。ま、そうなったらそうなったで、うちは構いしまへんけどな」
「分かりました。では色ごとの駆け引きは私の一存にて」
琴は、早や髪をほどきながら、不敵に微笑み返した。
「禿に、このいとはんの着替えの支度を」
善助は下男に言いつけて立ち上り、去り際に振り返った。
「源氏名は好きに決めなはれ。それから、あんたは天神や。すくなくとも浪士組の旦那衆の前ではそういうことにしときます。ええな?」
天神は太夫に次ぐ位である。
少なくとも新見の指名した糸里と同格でないと都合が悪いということらしい。
輪違屋としてはこれがギリギリの妥協点という訳だった。
琴は禿に案内されて、打掛の飾られた角部屋に通された。
姿見の前に座った襦袢姿の琴に、
女髪結いが付き、
白粉を塗り、
墨で眉を描き、
唇、頬、眼元と紅を引てゆく。
鮮やかな紫の藤をあしらった振袖に、
山吹色の俎帯を島原独特の風に結び、
出来上がった兵庫髷にきらびやかな簪や櫛を差すと、
善助の読み通り、傾城の天神が出来上がった。
その眩しさに、禿たちが小さな歓声をあげた。
その頃。
角屋の中戸口(従業員入口)の前では、新見錦がいつ痺れを切らして暴れだすかと、主人徳右衛門が肝を冷やしていた。
永遠にも思える時間が過ぎ、もう一度使いを遣ろうと手を叩きかけた時、門前に待ちかねた芸妓が現れた。
「旦那様、新見先生のお部屋は?」
それが糸里だと思い込んでいた徳右衛門は、戸口に立っているのが見たことのない美しい芸妓だと気づいて口を開けたまま固まった。
「あ、あんたは?」
「糸里が臥せっておりますので私が来ました。ほら、さっき輪違屋に紹介状を書いていただいた、琴です」
琴はよく見ろという風に扇子で胸元を差した。
「え?え?あんた、さっきの?」
事情が呑み込めず主人は戸惑ったが、とにかく一刻も早く部屋へ遊女を通さねばならない。
新見錦は、格子窓の外を眺めながら、独り手酌で飲んでいた。
料理には手をつけた様子がない。
「失礼いたします」
琴が襖を開ける音に振り向いた新見は、どこかぼんやりした様子で、
「糸里はどうした」
と尋ねた。
「申し訳ありません。風邪をこじらせまして、私が代わりに参りました。どうかご容赦ください」
琴は思った。
壬生浪士組局長、新見錦。
この男を欺き通すことができれば、今後も正体がバレる心配はないだろう。
新見は琴の顔をずいぶん長い間、じっと眺めて、ようやく口を開いた。
「美しいな…吉原や祇園でも其方ほどの女には会ったことがない」
「お戯れを。お世辞がお上手ではありませんね」
琴は襖を閉め、新見の横に沿うように座った。
新見は少しはにかむように、またうつむいた。
「そうじゃない…いや、やめておこう。女におべっかを使うようになっては終わりだな、俺も」
「そのような。壬生浪士組の局長ともあろうお方が」
「糸里に聞いたのか?だが、今は訳あって浪士組を離れている」
琴は新見をじっと見つめた。そういえば北新地の紀伊国屋で騒動があった時もこの男はいなかった。
新見は琴の沈黙に耐えかねたように続けた。
「逃げた訳じゃない。国事のためだ。まだ内示の段階だが、攘夷監察使の親兵として下関に下ることになった」
「よく分からないですれど、それはきっとご出世なのでしょう?おめでとうございます」
「めでたい…か。ふん、何をやるにも結局必要なのは金でな。毎日、商家で金の無心ばかりしていると目的を見失いそうになる。其方にこんな愚痴をこぼしても詮無いことだが。其方…名は?」
琴は少し後退り、指先を揃えて深々と頭を垂れた。
「これは失礼いたしました。私、明里と申します。ご贔屓に」
「残念だが、浪士組屯所の見納めにこちらへ出てきた。島原へ足が向いたのは、水杯じゃ味気ないからさ」
やるべき事を見つけて、新見錦は少し変わったようにも見えた。
琴が酌をして、新見は静かに盃を傾ける。
そうして半刻は経った。
「随分口が重とうございますね」
「ん…」
新見は物思いに耽るように、口元へ運んだ盃を止めた。
それともこれが新見の本当の姿なのだろうか。
盃の酒がわずかに波立っている。
新見の手は小刻みに震えていた。
「お寒うございますか」
「其方とはもう会うこともないだろうから白状するが、多分、俺は怖いのだ」
「それは下関の外国船のことを仰っているのでしょうか」
新見は自問自答するように目を閉じた。
「…いや、たぶん違うな。怖いのは、奴らと対峙した時の自分が、武士としての矜持を保てるのか、それを疑っているからだ」
普段の彼は人に弱みを見せることを嫌ったが、
酔いが回ってきたせいか、少し口数が増えたようだ。
「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ、ですか?バカバカしい、およしなさい」
琴が薄く嗤う。
新見は驚いた顔で盃から目をあげた。
「おまえは面白い女だな。しかし別に討ち死に覚悟ってわけじゃない。まだやることは山ほどある。ただ、こんなご時世だ。何があっても、みっともない死に様は晒せんということさ」
「では、お帰りの際はまたお酌をさせてくださいな」
琴はそう言って、廊下に面した襖に目を走らせた。
外に人の気配がする。
先ほどから何度か、誰かに話を盗み聴かれているようだ。
目的は新見か。
新見自身は気づいていないようだった。
「弱音を吐いたのはお前が何処か幼馴染に似ているからかも知れん」
「初恋のひとですか」
新見は頭を掻いた。
「いや、男だよ」
「あら、随分な言い草」
「そういう意味じゃない。実際彼は男の俺が見ても惚れ惚れするほど美しい少年だった…」
琴が少し驚いた顔をしたのを見て、新見は我に返ったように首を振った。
「は!そうじゃない、俺は男色など好まん。どうせならお前の初恋を肴にしよう」
「もう覚えておりませんね」
琴は山南敬介の顔を思い浮かべながら応えた。
新見もそれ以上は聞かなかった。
「今夜は喋り過ぎたようだ。帰る」
新見が立ち上がった。




