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幕末カタナ・ガール  作者: 子父澤 緊
遊里之章
257/404

苦界への入口 其之壱

話は数日前に(さかのぼ)る。

伏見の船着き場で、安藤早太郎と互いの健闘(けんとう)(いの)って別れた中沢琴は、

船宿(ふなやど)寺田屋に一泊して、翌日には島原の中堂寺町にある輪違屋わちがいやの前にいた。


元禄から続く老舗しにせ置屋(おきや)で、出格子でごうしの窓からは、稽古けいこ中なのだろうか、たどたどしい三味線しゃみせん音色ねいろが聴こえる。

この置屋を選んだのは、桂小五郎が贔屓(ひいき)にしている太夫がいると聞いていたからだ。



屋号を図像(ずぞう)化した”(つな)いだリング”を染め抜いた暖簾のれんをくぐり、下女に角屋からの紹介状を手渡すと、輪違屋主人善助に取り次がれ、奥に通された。

座敷は欄間(らんま)象嵌(ぞうがん)鴨居(かもい)の上に飾られた書、床の間の掛け軸、(ふすま)の柄に至るまで、何もかもが洗練されていて、琴の心象風景(しんしょうふうけい)にある置屋とはずいぶん(おもむき)が異なった。


三味線の音色(ねいろ)奏者(そうしゃ)が変わったらしく、心地いい。

投げ節(なげぶし)という小唄(こうた)の伴奏で、琴にも聴き覚えがあったが、ところどころ少し違うのは上方と江戸の差だろうか。


輪違屋善助は、縮緬(ちりめん)の羽織を着た、色の白い、上品な感じの中年男性で、

格式ある置屋のあるじらしく得体のしれない来客にも柔らかい物腰(ものごし)で応対した。


ひとしきり形式的な挨拶あいさつを済ませると、善助はさっそく本題に入った。

「本来なら、一見いちげんはお断りどすけど、西郷はんの紹介もあることやし、あんたほどの別嬪べっぴんなら歓迎します」

しかし、琴の不躾(ぶしつけ)な要求で途端とたんに雲行きが怪しくなった。

「わたし、お座敷にあがりたいんです」

善助はわずかに表情を険しくする。

「いとはん(お嬢さん)、考え違いしたはらへんか。くるわうのはそない甘いもんやおへん。

いくら西郷はんのお顔立かおたてるゆうたかて、島原には島原のしきたりうもんがおす。あんたはんを雇うのはあくまで下女としてどすえ」

琴は食い下がった。

「昨今、島原には色々な国から周旋しゅうせんのため上京されたお武家ぶけ様が集まって来られます。西郷は私がそうした方々と交わって得たこちら政情はなし国許くにもとに知らせることを望んでいます。おくど飯炊(めした)きをしていてはお役目も務まりません」

遠回しな駆け引きを(はぶ)き、スレスレの線でブラフをかけてみる。

善助は得心がいったように(うなず)いた。

「自分から進んで苦界(くがい)に足突っ込みたいやなんて、最初この(むすめ)はアホなんやろか思いましたけど、そうゆう魂胆(こんたん)どすか」

「はい」

琴は善助の顔色を伺った。

そこには変わらず柔らかい笑みが浮かんでいるだけだった。


「あんたはん、見たとこ十九か二十歳言うとこどすやろ。残念どすけど、いとはんではいささかとうが立ち過ぎとおすなあ。よろしおすか?芸妓ゆうのは、一人前になるまで仕込みが長いこと掛かりますのや。六つか七つの頃から、まずは太夫についてお座敷の作法を覚えなあかんし、(うた)、踊り、お琴や三味線(しゃみせん)、ようけ芸事げいごとのお稽古けいこもせなあかん。そうやって禿かむろから、端女郎はしじょろう鹿恋かこいを経て、ようやく揚屋(あげや)のお座敷に上がれる天神どす。昨日今日三味線しゃみせんを触った女子おなごはんの付け焼き刃で通用する世界と違う」

輪違屋では、花香太夫、桜木太夫、花君太夫、錦木太夫、若い一之天神、糸里天神らをはじめ30人以上の芸妓が華を競っており、その生存競争は熾烈しれつを極めた。

「江戸前の流儀ですけど、うたとお琴と三味線しゃみせんくらいは一通りたしなみます」

それでも琴は要求を曲げない。

「百歩譲ってそうやとしても、花柳かりゅうの世界にまつりごとを持ち込むのは無粋ぶすいや。堪忍かんにんどすえ」


琴は肩を落として首を振り、やれやれという風にため息をついた。

「キレイ事はやめましょ。長州も薩摩も、それに会津、おかみだって、島原ここや、祇園ぎおんを密議の場所にして、遊女たちを連絡の手段に使ってる。知らないとは言わせないわ。花街はなまち陰謀いんぼう温床おんしょうで、あなた方はすでに裏の世界にどっぷりかっているでしょ」

いつもの蓮っ葉(はすっぱ)な口調に戻っている。

それは、もはや政界では公然の秘密であったが、若い娘が口に出して言うことではない。


「怖いいとはんやなあ」

善助はやんわりと受け流したが、琴はさらに切り込んだ。

「もっと分かりやすく行きましょう。ここにいる遊女たちのほとんどは借金を背負っていて、そのかせぎからいくばくかをあなた方への返済にてている。けど私には、貴方あなたになんのツケもない。つまり、私の取り分を差し引いたもうけはそのままあなた方のふところに入る。悪くない条件だわ」

「言われんでも損得勘定そんとくかんじょうはこっちの生業なりわいどす。あんたはんは、うちとこをめたはりますなあ。島原は気位きぐらいの高さが売りどす」

輪違屋善助は、いささかも口調を変えず、穏やかに、しかし断固としてねつけた。

「気が変わったら、寺田屋に文を」

琴が席を立とうとしたとき、(ふすま)が開いて下男が頭を下げた。

月代(さかやき)には玉のような汗をかいている。


「お取込み中すんまへん。角屋さんから、壬生浪士の新見先生(せんせ)からの逢状(あいじょう)を持ったおちょぼが来たはりますのやけど。糸里をご指名で」

善助の顔にうれいが差した。

「ふう…新見はんか。で、糸里は?」

「怖がって行きとないゆうたはります」

「またかいな。まあ、あのお方は酒癖さけぐせが悪おすさかい…糸里の気持ちも分からんではないが。『糸里天神は風邪(かぜ)で伏せっとおいやす』うて、あんじょうお断りできへんのんか」

「断ったらまた矢の催促さいそくで、最後には暴れられて角屋さんにもご迷惑が…」

下男はまるでそれが自分のせいであるかのようにかしこまっている。

「弱ったなあ。ほな、名代みょうだい(代役)に誰ぞおり」

「そやけど、あのお方は体面にこだわらはるさかい、名代みょうだいでお茶をにごしたら、えろうおいかりになられます」

角屋のような揚屋(厨房を持つ高級店)は、茶屋と違い、鹿恋かこい端女郎はしたじょろうなどの遊女ではお座敷に呼ばれる事すら叶わない。

「しゃあない、太夫たゆうに頼めへんか」

太夫たゆうはみなさん出払ではろうてはります」

下男は万事休ばんじきゅうすと言ったていで首を振った。


「私が行きましょうか?」

琴が唐突とうとつに申し出た。


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