苦界への入口 其之壱
話は数日前に遡る。
伏見の船着き場で、安藤早太郎と互いの健闘を祈って別れた中沢琴は、
船宿寺田屋に一泊して、翌日には島原の中堂寺町にある輪違屋の前にいた。
元禄から続く老舗の置屋で、出格子の窓からは、稽古中なのだろうか、たどたどしい三味線の音色が聴こえる。
この置屋を選んだのは、桂小五郎が贔屓にしている太夫がいると聞いていたからだ。
屋号を図像化した”繋いだリング”を染め抜いた暖簾をくぐり、下女に角屋からの紹介状を手渡すと、輪違屋主人善助に取り次がれ、奥に通された。
座敷は欄間の象嵌、鴨居の上に飾られた書、床の間の掛け軸、襖の柄に至るまで、何もかもが洗練されていて、琴の心象風景にある置屋とはずいぶん趣が異なった。
三味線の音色は奏者が変わったらしく、心地いい。
投げ節という小唄の伴奏で、琴にも聴き覚えがあったが、ところどころ少し違うのは上方と江戸の差だろうか。
輪違屋善助は、縮緬の羽織を着た、色の白い、上品な感じの中年男性で、
格式ある置屋の主らしく得体のしれない来客にも柔らかい物腰で応対した。
ひとしきり形式的な挨拶を済ませると、善助はさっそく本題に入った。
「本来なら、一見はお断りどすけど、西郷はんの紹介もあることやし、あんたほどの別嬪なら歓迎します」
しかし、琴の不躾な要求で途端に雲行きが怪しくなった。
「わたし、お座敷にあがりたいんです」
善助はわずかに表情を険しくする。
「いとはん(お嬢さん)、考え違いしたはらへんか。廓言うのはそない甘いもんやおへん。
いくら西郷はんのお顔立てるゆうたかて、島原には島原のしきたり言うもんがおす。あんたはんを雇うのはあくまで下女としてどすえ」
琴は食い下がった。
「昨今、島原には色々な国から周旋のため上京されたお武家様が集まって来られます。西郷は私がそうした方々と交わって得た京の政情を国許に知らせることを望んでいます。お竈で飯炊きをしていてはお役目も務まりません」
遠回しな駆け引きを省き、スレスレの線でブラフをかけてみる。
善助は得心がいったように頷いた。
「自分から進んで苦界に足突っ込みたいやなんて、最初この娘はアホなんやろか思いましたけど、そうゆう魂胆どすか」
「はい」
琴は善助の顔色を伺った。
そこには変わらず柔らかい笑みが浮かんでいるだけだった。
「あんたはん、見たとこ十九か二十歳言うとこどすやろ。残念どすけど、いとはんではいささか薹が立ち過ぎとおすなあ。よろしおすか?芸妓ゆうのは、一人前になるまで仕込みが長いこと掛かりますのや。六つか七つの頃から、まずは太夫についてお座敷の作法を覚えなあかんし、唄、踊り、お琴や三味線、ようけ芸事のお稽古もせなあかん。そうやって禿から、端女郎、鹿恋を経て、ようやく揚屋のお座敷に上がれる天神どす。昨日今日三味線を触った女子はんの付け焼き刃で通用する世界と違う」
輪違屋では、花香太夫、桜木太夫、花君太夫、錦木太夫、若い一之天神、糸里天神らをはじめ30人以上の芸妓が華を競っており、その生存競争は熾烈を極めた。
「江戸前の流儀ですけど、唄とお琴と三味線くらいは一通り嗜みます」
それでも琴は要求を曲げない。
「百歩譲ってそうやとしても、花柳の世界に政を持ち込むのは無粋や。堪忍どすえ」
琴は肩を落として首を振り、やれやれという風にため息をついた。
「キレイ事はやめましょ。長州も薩摩も、それに会津、お上だって、島原や、祇園を密議の場所にして、遊女たちを連絡の手段に使ってる。知らないとは言わせないわ。花街は陰謀の温床で、あなた方はすでに裏の世界にどっぷり浸かっているでしょ」
いつもの蓮っ葉な口調に戻っている。
それは、もはや政界では公然の秘密であったが、若い娘が口に出して言うことではない。
「怖いいとはんやなあ」
善助はやんわりと受け流したが、琴はさらに切り込んだ。
「もっと分かりやすく行きましょう。ここにいる遊女たちのほとんどは借金を背負っていて、その稼ぎから幾ばくかをあなた方への返済に充てている。けど私には、貴方になんのツケもない。つまり、私の取り分を差し引いた儲けはそのままあなた方の懐に入る。悪くない条件だわ」
「言われんでも損得勘定はこっちの生業どす。あんたはんは、うちとこを舐めたはりますなあ。島原は気位の高さが売りどす」
輪違屋善助は、いささかも口調を変えず、穏やかに、しかし断固として撥ねつけた。
「気が変わったら、寺田屋に文を」
琴が席を立とうとしたとき、襖が開いて下男が頭を下げた。
月代には玉のような汗をかいている。
「お取込み中すんまへん。角屋さんから、壬生浪士の新見先生からの逢状を持ったおちょぼが来たはりますのやけど。糸里をご指名で」
善助の顔に憂いが差した。
「ふう…新見はんか。で、糸里は?」
「怖がって行きとないゆうたはります」
「またかいな。まあ、あのお方は酒癖が悪おすさかい…糸里の気持ちも分からんではないが。『糸里天神は風邪で伏せっとおいやす』言うて、あんじょうお断りできへんのんか」
「断ったらまた矢の催促で、最後には暴れられて角屋さんにもご迷惑が…」
下男はまるでそれが自分のせいであるかのように畏まっている。
「弱ったなあ。ほな、名代(代役)に誰ぞお遣り」
「そやけど、あのお方は体面に拘らはるさかい、名代でお茶を濁したら、えろうお怒りになられます」
角屋のような揚屋(厨房を持つ高級店)は、茶屋と違い、鹿恋や端女郎などの遊女ではお座敷に呼ばれる事すら叶わない。
「しゃあない、太夫に頼めへんか」
「太夫はみなさん出払うてはります」
下男は万事休すと言った態で首を振った。
「私が行きましょうか?」
琴が唐突に申し出た。




