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幕末カタナ・ガール  作者: 子父澤 緊
下坂之章
250/404

Don Quijote Pt.2

「お、女を追え!」

練兵館の門徒もんとたちが我に返り、駆け出した時には、

琴は荷揚にあげ場の脇にある河岸問屋かしどんやの小屋を回り込み、

姿を消していた。


「変だ」

路地に逃げ込んだ琴は着物の帯とすそを直しながら辺りを見回した。

あの顔ぶれに、仏生寺の姿がないのはおかしい。


八軒家浜から三本ほど入った通りに出ると、

火の見櫓(ひのみやぐら)を備えた火消ひけし屋敷が目の前にあった。

「井組」の提灯ちょうちんが上がっている。

路地にはハシゴや竜吐水(りゅうどすい)(ポンプ)が乱雑に置かれていた。


その物陰から、琴は何者かに腕を強く引かれた。

バランスをくずして転びかけたところで、その男に背中を支えられた。


「あなた…」

それは具足ぐそくをつけた仏生寺弥助だった。

「妙なところで会いますな」

「本当に。今日は、斉藤先生のお供かしら?」

琴は抱きとめられたまま、皮肉っぽく笑った。

「ええ。まもなく下関でドンパチが始まりそうなんでね。九段下にある先生の道場から”勇士組”なんて冗談みたいな名前の部隊を援軍に送ることになったんだが、光栄なことに桂先生から直々に御指名がかかりまして」

琴は仏生寺の腕を振り払って、自分の脚で立った。

「桂…桂小五郎?」

紀伊国屋きのくにやで小寅と接触を図った、長州の右筆ゆうひつだ。

「ご存じで?」

「いや…だから他所行よそゆきだったのね」

琴ははぐらかした。

とすれば、先ほど絡んできた連中が、その勇士組だろう。


この頃、久坂玄瑞率いる入江九一、山縣小輔、吉田稔磨ら長州志士は、公家の中山忠光なかやま ただみつを党首としていただき、すでに京を離れており、

さらに攘夷の期日が発表された後には、斎藤弥九郎らの「勇士組」など、在京の有志もその後を追っていた。


まさにこれから死地へおもむこうという彼らは、確かに何処どこか殺気立っていて、本能的に異性を欲していたのかもしれない。

斉藤が鎖帷子(あんなもの)を着込んでいたのは、そういう事だったのかと琴は納得した。


文久3年5月5日には、久坂らは下関の光明寺に陣を敷き、のち光明寺党と呼ばれることになる。


長州藩は馬関海峡を封鎖ふうさする準備を着々と進めており、武力攘夷は秒読みに入っていた。


もちろん、琴に遠く離れた長州の状況を知る術はなかったが、清河八郎と行動を共にしていた彼女には、取り返しのつかない事態が刻一刻と迫っているのが肌で感じられた。

―結局、自分も含め、市井の人々はいつものように悪魔が通り過ぎるのを、息を潜めて待つ他ないのだろうか。


「で?貴方あなたはこんなとこで、誰から、何故なぜ逃げ隠れしてるの?」

「そういうわけじゃないが、ずっと彼らと一緒じゃ息が詰まるんでね。ちょっと息抜きに寄り道を」

怖気おじけづいて逃げ出したのかと思った」

「冗談だろ。命なんぞ別に惜しくもないが、正直、貴方あなたと勝負をつけられなかったのは心残りだったんだ」

仏生寺の身体から、またあの禍々(まがまが)しい殺気が立ち昇っている。

「まさか、こんな人の多いところで抜く気?」

「さっきの騒ぎを観させてもらった。アレを見せられたあとでは、人を斬らなきゃ気持ちが収まらない。なに、逃げ切れるさ。どうせ、明日の夜には瀬戸内で船の上だ」

琴も、仏生寺のそれと同じ空気を(まと)った。

随分ずいぶん自信がおありのようだけど、あいにく今日は私も機嫌が悪い。そうね、私なら、明日の夜、貴方あなた合掌島がっしょうじまの刑場で野晒のざらしになってる方に賭ける」

仏生寺は、おもむろに腰から長物ながもの(長刀)を外し、琴の前に放った。

ひろえ。私は脇差(わきざし)で充分だ」

琴は(かが)んで刀に手を伸ばしながら、仏生寺を()めあげた。


「有利をゆずる気なら遠慮なく受ける。

けど、後からこれを敗けた言い訳にしないでね」


言い終わらないうちにサヤを払い、

足元をいだ。

仏生寺は前に跳躍ちょうやくしてそれを交わし、

そのままりを放つ。

琴は後方に一回転して、

その蹴りを上に払った。


わずか三間の路地で、神速(しんそく)の攻防が繰り返される。


仏生寺は体勢を立て直し

脇差わきざしを抜いた。


「渡す刀を間違ったかな。この路地では短い方が有利だ」

仏生寺は上段に構えた。


琴は緊張に身体を固くする。


その時、通りから声がした。


「よしなさいよ、こんな所で」

二人の注意は一斉にそちらに向いた。

逆光ではっきり見えないが、深編笠(ふかあみがさ)を被った虚無僧(こむそう)が立っていた。

「ほら、そこらにゃ小さな子供もいるってのに」

「誰?」

「誰って、托鉢中(たくはつちゅう)虚無僧こむそうに見えませんか?」

「見えないね」

仏生寺は恐ろしい眼で、とぼけた返事をする虚無僧こむそうにらみつけた。

確かに琴と仏生寺の斬り合いを見て、なお躊躇(とまど)わずに声をかけるなど、

並の度胸どきょうで出来る事ではない。


先ほどの騒ぎで奉行所の同心どうしんが駆けつけ、呼び子を吹いているのが聞こえる。


仏生寺は刀をサヤに収め、肩を落とした。

興醒(きょうざ)めもいいとこだねえ。さて、じゃあわたしは一杯引っ掛けて、大坂に来てるって言う浪士組でも冷かしに行くとするか」

いつもの冴えない顔に戻ると、琴に手を差し出した。

長刀を返してくれという意味らしい。

琴が無言で差し出した刀を(つか)むと、そのまま(きびす)を返す。

「待ちなさい!何する気?」

「何もしやしませんよ。ちょっと暇乞いとまごいにね。あ、そうそう…」

仏生寺は数歩行ってから振り返った。

「真犯人の名誉のために言っておくと、清河をったのは、斉藤の若先生じゃないよ」

そして背を向けると、軽く手を振りながら角を曲がってしまった。

「ちょっと!まだ話は…」


「ほら、姉さん。忘れもんだよ」

まだ何か問いたげな琴が背後の声に振り返ると、

虚無僧こむそうが船着き場に放置されていた大きな荷物を背負っている。

深編笠ふかあみがさを取ったその顔は、坊主頭にそぐわない遊び人風の中年男だった。

安藤早太郎である。


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