カタナ・ガール 中篇
もちろん、一目散に逃げだした方が、阿部慎蔵である。
河原を、北の丸太町のほうへ駆けていく。
抜き身をさげた入江、山県、杉山がそのあとを追うのが見える。
彼らの姿は、もはや三条大橋から望む河原の点景になりつつあった。
いきなり都の混乱ぶりをまざまざと見せつけられた試衛館の面々は、すっかり毒気を抜かれてしまった。
中沢琴と肩を並べてこれを見ていた山南敬介も、しばらくは呆気にとられていたが、
「お琴さん、やはりあなたはここにいてはいけない。」
と、深刻な顔でとなりを見た。
が、そこにいるはずの琴の姿はない。
「…あれ、いない」
「ちくしょう!ちょっと目を離したスキに!」
すぐそばにいた中沢良之助が、慌てて周囲を見わたす。
「ケンカでも見に行ったんじゃないのか?」
土方歳三が良之助の狼狽ぶりをみて冷ややかに言った。
沖田総司は、近藤勇と顔を見合わせて、おもわず失笑した。
「あの人、自由すぎる…」
「沖田くん」
どうやらもう近くにはいないことが分かると、山南が声をかけた。
「はいはい。連れ戻してきます」
沖田は、言われるまでもなく、すでに人ごみをかき分けている。
「まて、俺も!」
後を追おうとした中沢良之助の肩を、山南がつかんで引き止めた。
「あっちは沖田くんに任せておこう。ちょっと話があるんだ」
「なんです。こんなときに」
良之助はじれた様子でこたえた。
その頃。
阿部慎蔵は土手を駆け上がると、高瀬川という小さな川にかかる橋の上で、入江九一らと向き合った。
「どうした。とうとう観念したか」
入江が息を切らしながら、抜き身をかまえた。
その顔色が、心なしか冴えない。
じつは、阿部が立っている橋の向こうにあるのは長州藩邸だった。
藩邸には、彼ら若手の頭目で江戸家老右筆役という重職をつとめる桂小五郎がいる。
こんなつまらないケンカをしているところを桂に見つかれば、こっぴどくしかられるだろう。
もちろん、入江らの正体を知らない阿部にそんな計算があったわけではなかった。
この小さな橋の上なら、一人ずつ相手が出来るし、うしろをとられる心配もないと思っただけだ。
彼も、ただ逃げたわけではなかった。
それに、あんなところで刀を振り回しては、町の人間も無事ではすまない。
阿部慎蔵という男は、一本気なことをのぞけば、ほぼ全てにおいて凡庸だったが、少なくとも卑怯者ではなかった。
「よおし、かかってこいよ」
阿部は刀を抜いた。
しかし、山県小輔や杉山松助も、入江と同じことを考えているらしく、なかなか手を出さない。
膠着状態が続いた。
物見高い都の住人たちが、またぞろ集まってくる。
「くそ、これじゃ場所を変えた意味がねえ。あんたたち!危ないから下がってろ!」
阿部が、入江らの背後に群がる野次馬たちを手で追い払うと、その中から
「がんばってや!」
という黄色い声が上がった。
阿部は情けない笑顔で、それに応えた。
「ハハ、ありがとよ。…あ~あ、俺、なにやってんだろ」
こんなときに、刀まで質に入れなくてよかったなどと取り留めのないことを考えている自分がおかしかった。
「良かったじゃないか。おまえを応援する人間もいるらしい」
入江九一が不敵な笑みをうかべながら間合いを詰める。
橋といっても、全長が四間(7M)にも満たない小さなものだ。
気圧された阿部は、じりじりと下がって、気がつけば橋のきわまで後退していた。
これを渡りきってしまえば、三人を同時に相手しなければならない。
しかし、
入江が正眼のかまえから渾身の突きをはなつと、
阿部は反射的に飛びのいてしまった。
山県、杉山はその機を逃さず、殺到して橋を駆け抜けた。
阿部は、あっという間に三方から切っ先を突きつけられる。
「万事休すだな」
入江がニヤリと笑ったそのとき、
「あんたら、一人やったら木偶人形しか斬れんのか!それやったら、島田左近と何がちがうんや!」
先ほどと同じ若い女の声でヤジが飛んだ。
京の人間というのは、反体制派の長州におおむね好意的だ。
これは人々が愛した悲劇の英雄・源義経以来の、判官びいき気質が関係しているらしい。
要するに、京ではめずらしいヤジだったわけだが、このケンカの形勢をみれば、これもまた判官びいきの一種と言えなくもなかった。
「今のは誰だ!」
杉山が血相を変えてふり返り、野次馬の群れにつめ寄る。
怯えた顔が並ぶなかに、一人だけ彼をにらみ返している町娘を見つけると、その腕をつかんで引きずり出した。
見たところ十七、八の商家の娘で、杉山にもひるむ様子はない。
必死に手をふり払おうともがいている。
「おまえだな。」
「そうや!痛いとこ突かれて怒ったんか!離してえや!」
ところが。
「いってえ!」
杉山松助は、突然その手に鋭い痛みを感じて、引っ込めた。
みると、手の甲が赤く腫れ上がっている。
わけがわからず町娘のほうを見ると、そのとなりに、妙に線の細い着流しのサムライが立っていた。
手にはサヤに収めたままの刀を握っている。
それで打ち据えられたらしい。
「やめておけ」
ようやく聞き取れるほどの声で言ったその浪士が、中沢琴だった。
さて、三条大橋では。
「じつは昨日の夜、気になるものを見たんだ」
山南敬介が神妙な面持ちで、中沢良之助に打ち明けていた。
良之助は、その顔をみて何か察したように、
「ひょっとして、姉のことですか」
と聞いた。
「ああ。彼女、本陣のうらで清河八郎と会っていた」
良之助は、思い当たるフシでもあるのか、さほど驚いた様子もない。
「…なるほど」
「知ってたのか」
「いえ。一度、下諏訪の宿場だったか…清河を遠目に見かけたことがあって、そのとき一緒にいたサムライが、どうも似てるような気がしていたから」
「きみは、姉さんがなにをやってるか聞いたのか。」
「その、もちろん、今までどこに姿をくらましていたのか、その間なにをしていたのか、問いただしましたよ。だが、なにも答えない」
良之助は、まるで言い訳でもするように両手を拡げてみせた。
「たぶん姉は、清河に取り込まれたんです」
そばで聞き耳を立てていた永倉新八が、我慢できずに口をはさんだ。
「ま、まさか、愛人になったとかいうんじゃねえだろうな」
「あんないかがわしい男に姉をやれるか!」
良之助は永倉をにらみつけたが、すぐ溜息をついて肩を落とした。
「いや、それならばまだいい。そうじゃなく、奴の思想にかぶれたというか…」
今度は、山南が強い口調でそれをさえぎった。
「まさか!そもそもきっかけがない。お琴さんは男装して浪士組に紛れ込んだんだぞ。不用意に自分から清河に近づいたりしないはずだ」
良之助は、山南の目をじっと見て言った。
「…いや、あの二人は私が江戸にいた頃からの知り合いなんです」




