Don Quijote Pt.1
同日の朝に話は戻る。
大坂、八軒家船着場。
中沢琴は、清河八郎の死に打ちひしがれてばかりもいられなかった。
なぜなら、それは同時に、京における活動のパトロンを失ったことを意味していたからだ。
渡されていた資金も底をつき始めている。
琴は浪士組に先んじて独り京へ戻ろうと、桟橋近くで三十石船の上り便を待つ人々の列にいた。
大坂に借金問題を残している阿部慎蔵は置き去りである。
川の流れに逆らって進む上り船は、「引き人」と呼ばれる人夫が綱で舟を引くため、下り船の倍以上の運賃を取られるうえ、時間もかかる。
それでも船を選んだのは、男物の着替えや刀など、普通の女性には必要のない大荷物のせいだった。
背負子に大きな行李と銅乱(革製の鞄)を載せ、その上に竿袋を寝かして縛り付けてある。
もちろん、その中に隠しているのは刀だ。
しかも、肩紐が絣の小袖に食い込むせいで、胸が強調される。
琴の容姿では男達が放っておくわけがない。
振り分けを持った浪人や、ふんどし姿の荷揚げ人足、襷掛けの船頭らがチラチラと好色な視線を送っている。
「娘さん、そねえいかい(大きい)荷物背負いきるかね」
たった今、京から到着した船から降りてきた旅装のサムライ達が、さっそく琴を取り巻いた。みな若い。
「これはなんかいや?」
一人が竿袋に興味を示したので、琴は反射的に身を引いた。
「継ぎ竿です」
「ほう、ワシも子供ん頃は、よう阿武川で山女魚を釣って、へてから焼いて食ったもんじゃ。船まで持っちゃるけえ、貸しんさい」
男が伸ばした腕を琴は振り払った。
「触らないで!」
「なんね!あんた、なんか隠しつろう?いったい何処においでてかね」
男はムッとして詰問口調になった。
中でも質の悪そうな男が近づいてきて琴の袂を覗き込む。
「確かに怪しいな。このデカい胸の中も調べなきゃな」
その下卑た笑顔には確かに見覚えがあった。
「太田、中野、三戸谷!止めんかね」
一団の首領格と思しき体格のいい男が声を荒げた。
この面長の顔も知っている。
中村半次郎と伏見の飯屋に入ったとき、清河八郎暗殺の密談をしていた。
忘れもしない 、
練兵館当主、二代目斉藤弥九郎だ。
琴は全身の血が沸騰するのを感じた。
制止の声が少しでも遅ければ、琴はこのゴロツキの腕をひねり上げていただろう。
「お嬢さん、申し訳ないね。悪気はなかったんだ」
斉藤はさすがに名のある武芸者らしく、丁重に頭を下げた。
「…」
琴は無言のまま、ゆっくりと肩から荷物を降ろし、
まだ間近にある三戸谷一馬の顔に囁いた。
「思い出した。あなた、仏生寺弥助に金魚のフンみたいにくっ付いていた人ね」
「なに?!」
三戸谷は顔色を変えて、腰に手をやったが、
差してあるはずの刀がない。
そして脇腹に強烈な鈍痛を感じた。
「お、おまえ…」
見れば、目の前の若い娘の手に、自分の刀が握られている。
「殺しても良かったが…峰打ちだから死にはしない」
「貴様!」
最初に刀を抜いたのは、
仏生寺のもう一人の取り巻き、高部弥三雄だった。
琴は高部が振りかぶると同時に、横になぎ払い、
刀を叩き落とした。
「おまえの顔も知っているぞ」
徒手を上げたままの間抜けな姿を晒す相手の肋骨に、
また容赦なく刀の峰を打ち付ける。
「…ぐ!」
高部は激痛にそのまま膝をついて倒れ込んだ。
斉藤弥九郎の門徒達は唖然としてその場に立ち尽くした。
残りは8人。
琴は素早く数と位置を確認した。
もちろん彼らは仏生寺のような無法者ではないが、
琴は我を失っていた。
斉藤はゆっくりと刀を抜いた。
「わけが分からないが…相手をしなければ収まらないようだな」
「そういうことだ」
琴の目は怒りに燃えていた。
稲妻のような速さで間合いを詰め、
ほとんど予備動作なしで袈裟懸けに斬りさげる。
しかし
斉藤は眼前でそれを受け止め、
力ずくで鍔迫り合いを制して跳ね返した。
「驚いたな…。しかし、いかんせん女の力で私は倒せんぞ」
「位は桃井、技は千葉、力は斉藤」
加藤田神陰流の達人、松崎浪四郎をして、
江戸剣術界で三本の指に入ると言わしめた彼もまた天才だった。
船着き場にいた人々は悲鳴を上げ、蜘蛛の子を散らすように逃げ出し、
それでも興味を抑えきれず、遠くから様子を伺っている。
一間も退いた琴は、まだ激しい憎悪をたぎらせた眼で斉藤を睨みつけていた。
「清河を殺ったのはおまえか」
押し殺すように言うなり、
宙を舞った。
そのまま斉藤の上空で身体を前方に一回転しながら、
体操の選手がひねりを加えるように、
身体ごと刀を振るう。
天を向いた琴の爪先は、二間半(4.5M)の高さにも達していた。
練兵館の門徒たちは、まるで人外のような動き、その流麗な美しさに、
事態の深刻さも忘れ、一瞬目を奪われた。
斉藤の背後、肩から背中にかけて
刄が真上から降りかかる。
だが、
カタナは斉藤の振り分けを切り裂いたところで、
鋭い金属音を発して弾き返された。
「ちっ!…鎖帷子か。なぜそんなものを着込んでいる」
斉藤は背中に残る衝撃を感じながら、
今見たものが信じられないという風に目を見開いている。
利根宝神流奥義、天駆飛斬。
生きている人間で、その技を目の当たりにしたのは、
ここに居合わせた人々だけかもしれない。
「娘、い…いったい、なんという流派だ?」
「貴様が知る必要はない」
「おのれ!」
斉藤は振り向きざま刀を薙いだが、
琴は真後ろに飛び退き、
そして、そのまま走り去った。




