カッパ島の決斗 其之弐
背中に罵声を浴びつつ戻ってきた沖田を捕まえ、土方は片方の眉を吊り上げた。
「今なんつった?選抜戦だ?」
打たれ強い沖田は、まだ名前の埋まっていない対戦表を、得意げに広げて見せた。
「時間もないし、ここに組み合わせを書いて、最終的に勝ち抜いた人を隊士にすりゃいい。篩にかけるには手っ取り早いでしょ?」
土方は、呆れ顔で腕を組んだ。
「何考えてんだ?勝ち抜き戦だと、一人しか残らないだろが。このバカ!」
「あ、そうか」
「お前の浅知恵は、だいたいいつもその程度…こらあ!名前を書くな!話を聞け!」
という訳で、選抜はトーナメント方式になったのだが、そこで沖田の筆がふと止まった。
「…そう言えばさ。あのヤサグレ坊主みたいのが、来てないんじゃないですか?」
常安橋会所から駆けつけた島田魁が割って入り、沖田の見立て違いを正した。
「お、沖田さん、その坊主は結構な大物でしたよ!」
その言葉に近藤勇が興味を示した。
「面白そうな話をしてるじゃないか」
島田は肩で息をしながら頷き、なにやら書き付けた帳面を開いた。
「あの男、安藤早太郎は、三河国挙母藩の産まれで、日置流雪荷派射術の使い手です。
天保十三年(1842)に行われた東大寺大仏殿回廊の通し矢では、一万本を超える矢数のうち、実に八割近くを的中させ、これは、長い通し矢の歴史でも今日に至るまで破られていない日本一の成績とされています」
近藤は、切れ長の目をさらに細めた。
「確かに、あの腕前には舌を巻いたが、あの男がそうなのか?大仏殿の通し矢といえば、有名な京の三十三間堂の通し矢より更に難しいと聞くが」
島田魁は、もう一度力強くうなずいた。
「ええ、ですからその腕前は、『古今第一』とまで評されているとか」
安藤早太郎―アンドウ ハヤタロウ―
一芸に秀でた武芸者の多い浪士組の中でも、尾張徳川家の御前試合で優勝したこの島田魁と並び、際立った経歴の持ち主である。
一時は知恩院一心寺に僧籍を置いていたが、乱世に思うところがあったのか、帰俗して侍に戻り、同志に加わる。
彼の最も得意とする弓術は、もはやこの時代において、その役目を銃器に譲った後であり、「日本一の弓取り」という肩書きも少々色あせた感は否めないが、彼の存在にはそれ以上の価値があった。
近藤や、土方、山南、新見といった幹部ですら、当時はまだ二十代で、だからこそ、新選組は、若さに任せた勢いで時代を駆け抜けたとも言えるが、反面、重要な局面で、大人の判断を下せる人物を欠いていたのは否めない。
粕谷新五郎の去ったいま、分別と経験を兼ね備えた安藤早太郎の存在は、つまり、彼らに最も足りないものを補った。
四十二歳と年長であったし、武芸に優れているだけでなく、非常に気さくで、しかも肝の座った男だったので、すぐさま沖田や永倉たちと同格の副長助勤に任じられたのも、当然と言えよう。
「お連れしたよー!」
遠くから聞こえてきた永倉新八の声に、
島田が勢いよく振り返った。
「お!永倉が、安藤殿を連れてきたようです!」
藤堂平助が弾かれたように、沖田の腕をとって駆けだした。
「見に行こうぜ!」
「ささ、先生、こちらでございま~す!」
永倉が、松原忠司を二人の前に突き出すと、
沖田はその坊主頭の男を見て、一瞬表情を曇らせた。
「えっ!!なんか、さっきとちょっと顔が違くない?ん~…ま、いっか。ぜひ試合に出てください!ね、先生!是非!」
松原も、こう持ち上げられて悪い気はしない。
「せやけど、今さら試されるのも、なんかちょっとなあ…」
沖田にグイグイ引っ張っていかれながら、言葉とは裏腹にニタニタしている。
「まあ、そう言わずに!」
「そやけどアレ、竹刀やないか。ワシ、ホンマは…」
「知ってます。専門は弓なんでしょ?なぁに、これは簡単な手続きだと思ってください。一芸は道に通ずるって言うじゃないですか?どうせロクなのは集まってないんだから、チャチャっと勝って終わらせちゃいましょ?」
「ゆ、弓?なんかお前、誰かと間違うてないか?」
藤堂平助の方は、当然この手違いにすぐ気づいていた。
「お、沖田!沖田ってば!この坊主頭は、さっきの人じゃ…」
なんとか知らせようとしたが、沖田の勢いは止まらない。
「それより、後で見せてくださいね、その通し矢ってやつ!」
「せやからおまえ、誰と間違うとんねん!ワシは…」
「いーからいーから!」
松原の抗議は、浪士たちの喧騒に搔き消えていった。
近藤勇と島田魁は、顔を見合わせた。
「ダレだアレ…?」
安藤早太郎の合流は、もう少し先になりそうだ…。
こうして、曲者揃いの新選組に、役者が集ってきたわけだが…
いや、ここにもう一人、もっともクセの強い男が残っていた。
谷三十郎である。
集まった浪士の群れを見渡していた原田左之助が、突然ブルっと身震いした。
なにか野生の勘のようなものが働いたのかもしれない。
「…おかしいぞ?さっきから、妙な悪寒がする…」
松原を送り届けて上機嫌の永倉新八が、原田の背中を叩いた。
「心配すんな。バカは風邪ひかねえから」
原田が浮かない表情で振り返った。
「そんなんじゃねえ。嫌な予感がするんだよ!そういえば、大坂に来てからこっち、ずっと、なんっか、引っかかってんだよなぁ」
「ハア?なに言ってんのおまえ。なんかって何だよ?」
「それが思い出せねえから、モヤモヤしてんじゃねえかよ!俺ぁ何か大事なことを忘れてるんだよ。忘れちゃいけない、何か」
そこへ。
背後から、谷三十郎が能天気に手をヒラヒラ振って悠揚 姿を現した。
「こりゃまたどうも。ご盛況ですな。みなさん、ご機嫌麗しゅう」
原田は、ゲンナリした顔で呟いた。
「ああ…たったいま思い出したぜ…大坂には、アイツが居たってことをよ」
三十郎は、すれ違いざま原田の肩をポンと叩いて、スタスタと近藤たち幹部のもとに歩み寄った。
「いよっ、左之助!おまたせ!大樹公がついに京へ上られたと聞きつけ、ソレガシ、馳せ参じましたぞ。みなさん、もう心配はご無用!」
その背中を見ながら、原田は永倉に耳打ちした。
「いつか出しゃばってくるとは思ってたが、とうとう出やがったな。あいつには関わらねえ方がいいぞ」
「知り合いか?」
「俺の槍の師匠の兄貴だ。もとは備中松山の産まれだが、今は兄弟三人で南堀江に出てきて、道場をやってる」
「そんなのが三人も浪士組に入れば、心強いじゃねえか」
「だといいが。末っ子は町内一の美少年、次男は松山一の槍使い、なんて言われてたがな。 長男のあの男は、日本一のお調子者って町中の噂だった」
「ハハハ、そりゃ調子よすぎだな!」
どうやら永倉はコトの深刻さを理解していない。
原田は眉間に皺を寄せた。




