多士済々 其之壱
慌ただしかった四月も終わろうとしている。
大坂、中之島。
めずらしくカラリと晴れた朝。
自称、槍術道場協同経営者、谷三十郎は、ここのところ大坂南堀江の道場から常安橋会所にある浪士組本陣に日参していた。
といっても、何かを待っているように橋の袂をウロウロしては、中を覗き見するばかりで、決して建物に近寄ろうとはしない。
少なくとも、昨日まではそうだった。
だがこの日、
ひとりの若い女が通りかかって、少し状況が変わった。
女は、如何にも都会には不案内といった様子で、蔵屋敷の破風に描かれた家紋や、店の看板をいちいち確かめながら、心許ない足取りで歩いてくる。
黒衿の小紋に淡い紫の襦袢と、身につけている物は、みな高価に見える。
「なにかお探しかい?」
根が女好きの、この男は迷わず声をかけた。
「ええ。浪士組の本陣というのは此方でしょうか?」
「…危なっかしいねえ」
「え?」
「こっちは長州の蔵屋敷、いわば、彼らの敵方だ。浪士組は、ほら、土佐堀を渡った向こう側、あのちっちゃーい方だよ」
女は口元に軽く手を当てて目を見開いた。
「ああ!あれ。どうもありがとうございます」
ペコリとお辞儀して行こうとしたところ、三十郎が腕をつかんだ。
「待ちな。若い娘さんが、浪士組なんぞに何の用だい?」
「そこで、人を待たせておりまして」
「見たところ、商家の娘さん風だが、大坂は初めてかい?どっから来た?」
「いえ、おなじ大坂の平野なんですが。最近播州から嫁いできたばかりで」
「ほほう。に、新妻という訳だ…」
「はあ、そうです…」
ゴクリと唾を飲んだ三十郎の眼には良からぬ魂胆がありありと浮かんでいたが、まだ世間擦れしていない若い女は気づかない。
「どうも、御新造(若奥さん)は、そそっかしくて放っとけない。ソレガシがついて行ってやろう」
「え?でもすぐそこに見えてるアレですよね…?」
三十郎は、厚かましくも新妻の唇に、人差し指を押し付けた。
「いいから!」
「え?え?いえ、でも」
そのままグイグイ腕を引かれて常安橋を渡ると、橋の親柱に隠れるようにして若い男が立っていた。
「あ、あれです」
新妻は、商人風の本多髷を結った、その撫で肩の青年を指さした。
ひ弱そうなその青年は、妹の姿に気付くと、
大げさに驚いた。
「フハ!お、お菊!」
「耆三郎兄様!」
「おまえ、ついて来なくていいと言ったのに」
「じゃあなんで、こんな物陰に突っ立っているんです!」
青年は、ムッとして親柱にしがみついた。
「ワタシぁ、この親柱の石彫りの見事さに惚れ惚れしていたところだ」
三十郎は、この青年に見覚えがあった。
このところ、自分と同じように、この辺りをウロついている男だ。
ただ、浪士組めずらしさに集まってくる、こういった野次馬は別に珍しくもなかったので、あまり気にも留めていなかった。
「ほう、お兄様ですか?」
気の弱い耆三郎は、目を合すこともできず、
「なな、なんです?馴れ馴れしい!あなたにお兄様と呼ばれる筋はありまテンヨ」
親柱に向かって抗議して、そして、舌を噛んだ。
「こりゃ失敬。いやあ、しかしお互いヒマですなあ、お兄様。昨日もお見かけしましたが?」
谷三十郎は、額にピシャリと手を当てた。
男が相手となると、俄然地のお調子者ぶりを発揮する。
耆三郎は、チラリと相手の顔を盗み見た。
「た、た、確かにあなたのお顔には見覚えが。では、あなたもこの石工の見事な造形に取り憑かれたヒトリでありますか…」
具にもつかない言い訳を、妹はズバリと断ち切った。
「実は、浪士組が隊士を募っていると聞きつけた兄は、高砂から私の嫁ぎ先に出て参ったのです。が、この通り、どうしようもなく気が弱くて、毎日会所の入口まで行っては、平野へ引き返して来てしまうのです」
「お、お黙りなさい、お菊!隊への加盟が男子一生の事業に足るか、軽々に決めるべきではないのだ!」
耆三郎は、妹の名を呼びながら、なぜかまた、親柱を叱りつけた。
「どうせ入っていく勇気が出ないんでしょ?ですから、今日は妹の私が付いて参りました」
三十郎は、少し考える振りをして、
「しかし、お兄様の仰ることも尤もではありますぞ。いや、ソレガシもね、彼らに力を貸すべきか否か、彼らの尽忠報国の志に嘘はないか、それを見極めようと、今日も新町から足を伸ばした次第なのです」
なおもテキトーに調子を合わせると、
青年耆三郎は、相手も浪士組入隊志願者であると知って気を許したのか、ようやく目を合せた。
「ということは、貴方も?」
「そうなのですよ、お兄様。しかしこの剣を、無頼の徒に預けるわけには参りませんからな。ソレガシも浪士組とやらを、じっくり吟味していたワケです。ホホホ」
「フハ!しかし、そのご懸念は無用でしょう。なにせ、浪士組というのは、老中板倉勝静様肝煎りの部隊という話です」
「な、な、なんですと!ここだけの話、ソレガシ、殿のお膝元、備中松山藩士にござる!」
備中松山藩主、板倉勝清は、昨年幕府の老中に任命され、実は浪士組創設にも関わっている。
そして、奇しくも原田左之助が中沢琴に語った通り、谷家を取り潰した張本人でもあった。
お家断絶の原因を作った谷三十郎が、もはや藩士である訳などない。
のだが、この男は、その場凌ぎの嘘だけで世間を渡ってきたツワモノであるから、大概の者は、この嘘を真に受けた。
「ハハア、それはそれは、浅からぬ因縁を感じますねえ。……いやちょっとお待ちください。先ほど新町から来られたとおっしゃいましたか?それは、この世の極楽浄土、新町遊郭のある、あの新町でしょうか!」
「この世の極楽…言いましたっけ、そんなこと?…いや、多分その新町ですな」
「なんて羨ましいお方だ!」
耆三郎は目を輝かせ…なかなか話が噛み合わないようなので、ひとまず場面を移そう。




