崩れ落ちる塔のように 其之伍
琴は小寅の顔をマジマジと眺めた。
「…あなた、ひょっとして、あのとき寺田屋にいた人たちを知ってたの…?」
小寅はしばらく黙ったまま琴の目を見つめ返し、口を開いた。
「有馬新七様、柴山愛次郎様、橋口壮介様、奈良原喜左衛門様、喜八郎様、柴山弥吉様…」
慈しむように一人一人呼んだその名は、ほとんどが寺田屋で殉難した者たちのものだった。
「薩摩のお侍は、みなさん一本スジの通ったええ人ばっかりや。でも、せやからこそ、みんな後に引けんようなって、あんな悲しい出来事が起きたんや」
「ふ、それはどうかしら」
薩摩と小寅の繋がりを、浪士組と自分の関係になぞらえていた琴は、少し辛辣な口調になっていた。
「なんで!」
「事実がそんなに美しいものなら…誰も悪くなかったんだとしたら、薩摩屋敷にいる亡霊は…あれは、なんなの」
「亡霊?なんのこと?あんた、お化けなんか信じとるん?」
「ねえ小寅ちゃん。あの時、寺田屋には薩摩の人たちの他にも誰かいたんじゃないの。本当は…あそこで何があったの?あなたはそれを知ってるんじゃないの」
琴は清河八郎から最後に聞かされた真木和泉、田中川内介ら首謀者の件について敢えて触れず、彼女がどこまでこの件に通じているのか鎌をかけてみた。
「へんなこと言わんといて。うちもあの事件の後、あそこで生き残った人らには会うとらん。そやから世間の人たちが噂しとる以上のことは何も知らんねん。だいたい薩摩の人らはあの日あったことに話が及ぶと、みんな貝みたいに口を閉ざしてしまうんやから。それくらい、あの出来事はみんなにとって深い傷を残してるんや」
「…そうなのかな」
「ほかにどんな理由がある言うの!」
「わからない。わたしにも解らないわ…ここからは私の勝手な推測だけど。岩吉という男は、寺田屋で騒ぎを起こした元誠忠組の残党と長州が手を結ぶ橋渡しをしたんじゃない?だから、事を荒立てたくない桂は迂闊に近づくことを恐れた…」
「そんなん分からん。うちはただ、時々岩吉さんから託かった手紙を一蔵さんゆうお侍に渡してただけやし」
「あの岩吉というのは何者?」
「なんや、あんた知り合いなんやろ?」
「実は一度会っただけなの。正直に言うとね、わたし、貴方が手紙を渡す相手が知りたくて近づいたの」
捨て鉢になっていた琴は、正体をバラし、詰られるのも覚悟で打ち明けたが、小寅はただキョトンとしている。
「あんたこそ何者なん?」
「わたしは…」
言いかけて琴は愕然とした。
清河が死に、山南とも心が離れてしまったいま、自分がここにいる意味は。
「そうね。わたしには、もうこんな事に首を突っ込む理由なんて、何もないのかも知れない」
小寅は丸い目を更にまん丸にした。
「なんやそれ!まあ、うちも岩吉さんに直接会うたんは2回ほどなんやけど。あの人の手紙を持っていったら、一蔵さんがうちの手紙と一緒に届けてくれるんや」
「だれに?」
「ふふ♪ええひと」
途端に、小寅は少女のような顔で微笑んだ。
「それは、直接渡しに行けない処なのね」
琴は、店先で追い返されたときと同じ事をもう一度聞いてみた。
「そんなん無理や。吉之助さんは沖永良部島におる。あ。言うてもうた」
西郷吉之助―サイゴウキチノスケ―
維新三傑といわれた英雄たちの中でも、もっとも人々に愛された男。
のちの西郷隆盛である。
あの坂本龍馬をして、
“大きくたたけば大きく響き、小さくたたけば小さく響く”
と言わしめた無尽蔵の器をもつ巨人。
そして、この後近藤たち新選組の運命に大きくかかわっていく、
最大の敵。
だが何も知らない琴は、ただ小首をかしげて微笑んだ。
「吉之助さんていうの?その、沖永良部ってどこ?」
「しらんけど…遠く。でもええねん。手紙でも、うちは吉之助さんと確かに繋がってる」
事実、小寅は、この頃薩摩の実質的指導者島津久光の不興を買って島流しに処されていた西郷吉之助の窓口として機能していた。
京における攘夷派の公卿の黒幕ともいえる岩倉具視は、小寅を介し、遠く沖永良部島にいる西郷隆盛を経由して政局をコントロールしようとしていたのだ。
「どっちにしても、これ以上は喋らんで。きっとあんたも浪士組におる大事な人のためにこんなことしてるんやろうけど、うちも吉之助さんを裏切るようなことは言えん」
「今のわたしに、その言葉は応えるわ。あなたは、薩摩の人たちとほんとうに信頼し合ってるのね」
琴は力なく笑った。
「信頼?そうかなあ」
「違う?」
「ウチな、思うんやけど。ウチらがいま頭ん中で考えてることなんて、きっとお互いほんの欠片ほどしか相手に伝わってないねん。言葉だけで何もかも伝えることができたら、誰も喧嘩なんかせんで済むはずやもん」
なにも応えることが出来ない琴の肩に、小寅は優しく手を置いた。
「けど、そうやとしても、ウチらは今こうやって笑いながら話してるやん」
「そうね」
二人はしばらく、黙って月を眺めていた。
「うちな、薩摩の人の口利きで、新町の吉田屋ゆう店に移ることにした」
それは阿部慎蔵の口から出た老舗の揚屋の名だった。
小寅が此処を離れる責任の一端は自分にもある。
「そう」
琴は寂しそうにうつむいた。
「お琴ちゃんも一緒にどう?」
「え?」
「そやから…」
「私は。私は京に戻らなきゃ」
琴は自分に言い聞かせるように小寅の言葉を遮った。
「そっか」
「うん」
「ほんなら、もし仕事が必要やったら、島原に角屋ゆう揚屋があるさかい、そこ訪ねてみ?うち、吉之助さんの伝手で顔が利くねん。女中の仕事か、お琴ちゃんやったら置屋さんでもイケるかも。旦那はんに手紙書いとく」
「ありがと」
「お琴ちゃんは、ほんま無口やなあ。美人は黙っとっても絵になるから羨ましいわ」
「知ってる」
「アハハ、ムカつく」
二人は顔を見合わせて笑った。
「小寅ちゃん、またきっと会いましょ」
またきっと。
なぜ、そんな“ことば”が唇から零れたのか、
琴には自分でも解らなかった。




