崩れ落ちる塔のように 其之肆
常安橋を南に下ると、蔵屋敷の建ち並ぶ言わば大坂のウォール街を抜けて、職工たちの住む下町に出る。
櫂屋町。
朝から降り続いた雨は上がり、通りの両側に並ぶ家々の軒から瓦を伝う雫が連なるように落ちてゆく。
人々は濡れないように道の真ん中を袖が擦れ合うように行き交っていた。
「おい、今すれ違ったおねえちゃん、おれのこと見てたよな。おっとまた向こうから来たぜ、おー視線が熱い」
永倉新八と藤堂平助は今しがた見たものについて、どう捉えればいいのかまだ消化しきれていない様子で、他愛のない話をしながら街をブラついていた。
だが、
「…ちぇ!なんだこの後味の悪さはよ!クソくらえだ!永倉さん、あんただってそう思ってんだろ!」
直情的な藤堂は我慢しきれなくなったように、突然吐き捨てた。
「…ふう」
永倉新八は返事をする代わりに大きなため息をついた。
「なんとか言えよ!」
「男にとって、落ち込んでる女に声をかけられねえ時ほど、情けないもんはねえよな」
「お琴さんのこと言ってんのかよ」
「あんな辛そうなお琴ちゃんは見てらんねえ」
「あの女は…あの女は強いから、きっと大丈夫だよ。けど、あんな風にさせたのは、オレたちの不甲斐なさのせいじゃねえか」
「ああ…おめえは間違っちゃいねえよ、平助。おれぁよ、正義だの大義だの、そんなご大層な言葉を吐けるほど、ご立派な人生なんざ送っちゃいねえが、これだきゃ言えるぜ。例えいっときでも同じ釜の飯を食った仲間を、寄ってたかって追い詰めた挙句腹を切らせるなんてなあ…そんなのは男のするこっちゃねえ」
浪士組隊士の多くは元々農民の出であり、彼らは自分たちがパンドラの匣を開けてしまったことにまだ気づいていない。
だが、曲がりなりにも武家出身の二人は、今回の成り行きに山南と同じく言い知れぬ違和感を覚えていた。
「オレは!…」
藤堂はそこまで言って言葉をつまらせ、眼に涙を浮かべた。
「だが、じゃああのとき、オレはいったいどうすりゃよかったんです?だって、土方さんが言うことは道理で、オレには何も口を挟めなかった」
「そりゃおまえ……おれも今、考え中よぉ。だがな、おれたちゃこの先、近藤さんと土方さんの暴走を止めなきゃならん。例え、それで袂を別つことになっても。いいや、死ぬことになってもだ」
藤堂はゴクリと唾を飲んだ。
「いいか。覚えとけ。それが、あの二人にしてやることが出来る、俺たちの恩返しなんだぜ」
中沢琴は原田左之助を振り切り、土佐堀川沿いをうな垂れて歩いているところを、山南敬介とバッタリ出くわしてしまった。
「あ」
山南は川べりに佇み、虚ろな眼でこちらを見ている。
目のあった琴は、観念して山南に話しかけた。
「出すぎたことをしました…」
山南は会話を避けるように川底へ視線を外し、自らの内側に深く沈んでいった。
「…ここだけが澱んでいるんだ」
琴は恨めしげに小さく首を振った。
「あなたは、いつもそうです。大切なことはなにも私に話してくれない」
山南は応えない。
その沈黙が琴の感情の堰を切った。
「でもなぜ?今さらあの彼になにができると言うんです!こんなことして、誰に、なんの得があるんです!見逃してやるだけで、それだけでよかったのに」
そんなつもりはなかったのに、なぜか口をついて出て来たのは山南を責める言葉だった。
山南はじっと琴の眼を見据えた。
「黙りたまえ。君が隊のことに口出しするのは僭越だ」
「あなたも!あの清河や、清河を殺した奴らと同じなの!やっと分かり合えたとおもったのに…私は…あなたのことを見損っていました」
それは本心とはかけ離れたことばだった。
言葉は、いつも誤解と混乱を産み、人を惑わせる。
琴は、足早に山南とすれ違い、もう振り返らなかった。
そして、清河八郎の言葉を思い出した。
「-あの男があんなならず者集団に埋れて死んでいくのは、わたしも見たくないね」
打ちひしがれた琴を、小寅が紀ノ国屋で出迎えた。
「もう帰って来いへんと思とった」
「お店の人にも、貴方にも、きちんと謝らなきゃいけないと思ったから。ごめんね。私のせいで小寅ちゃんも怒られたでしょ」
小寅はニッコリと微笑んだ。
「かまへん。『お琴ちゃん、万吉さんの用事で急に出かけなあかんことになった』ゆうて、上手いこと誤魔化しといたさかい」
あの状況をどのように説明すれば繕えるのか想像もつかなかったが、琴はとにかく頭を下げた。
「それにしても、えらい騒動やったなあ。あれじゃ追いかけとる方も、逃げる方も命懸けやんか」
「正直に言うけど、あの連中はね、最近江戸から京に上ってきた浪士組、聞いたことくらいあるでしょ。私も関東の人間で、あの中の何人かは古い知り合いなの」
「そうゆうたら、聞いたことあるわ。攘夷派のお侍を取り締まっとるゆう…お琴ちゃんには悪いけど、うちああいう人らは好かん」
「そうね。彼らは身内であれ、お上の意向に沿わない意見を持つ者を許さない。あれは、もはや内輪揉めの域を越えてる」
琴は悲しそうに頷いた。
小寅は先ほどの言葉を打ち消すように両手を左右に振った。
「あの、勘違いせんといてや。うちは別に、尊王攘夷がどうとか公武合体がどうとか、そんな小難しい理屈で人を分けて考えとるんちゃうで。一緒にお酒飲んどったら、みんなおんなじやし、悪い人なんかそうそう居らんもん」




