崩れ落ちる塔のように 其之参
その夜。
家里の死を見届けたあと、浪士組の隊士たちは、それぞれの想いに耽った。
八軒家、旅籠天満屋。
「ごめん!」
芹沢の部屋の襖が勢いよく開かれ、そこに平間重助が立っていた。
「おっと!今日はお説教はナシだぜ」
煙管を手にした芹沢鴨は、入り口を振り返る前にもう片方の手のひらで制した。
平間は小さなため息をつく。
「そんなつもりはない。こうなりゃ地獄へでも付き合うまでだ」
「どうしたんだよ、気持ち悪いな。妙に物分かりがいいじゃねえか」
「あんたのやることは分からないことだらけさ。だが何やら考えがあるらしい」
芹沢は照れたように頭を掻いた。
「別にそんなもんはねえよ…ところで、平山ぁ!」
「は!」
平間は、平山五郎が部屋の隅に控えていたのに初めて気がついた。
「念のためだ。京にいる儒者の口をふさいどけ」
平山は残った片眼を細めた。
「儒者?誰です」
「奴の、家里の兄だ。この件は仏生寺先生に頼むとしよう。京に遣いをやれ。これがあの人の浪士組での初仕事になる」
芹沢は口から細い煙を吐いた。
「…この部屋は暗くて何も見えん。灯りをつけるぞ」
平間は、その手から煙管を取り上げると、苦い顔をして灯明皿に火を入れた。
そしてオレンジ色の陽光が翳り、薄い闇が大坂の街を覆うころ。
遺体が運び出された部屋には、動かない山南敬介と縁側に立つ沖田総司がとり残されていた。
「…雨、止みましたね」
沖田は、壬生狂言の日に見た家里次郎の顔を思い出しながら、だれにともなく呟いた。
「…沖田くん。天保山で見たあの黒船は、我々と同じ千葉門下で学んだ坂本くんが運んで来たそうだ」
「…え?」
「なのに…私たちがやっていることと言えばどうだ!これが!こんな茶番劇が、武士の為すべきことか!あれが、武士の誇りある死だというのか!私がこれまで必死に守ってきた武士の肩書きとは、この程度のものか!いま、日本人同士が殺しあうことに、いったいなんの意味があるというのだ!」
山南は血の出るほど拳を握りしめ、絞り出すように叫んだ。
沖田はただ黙って膝の上に置かれた山南の手が小刻みに震えるのを見つめるしかなかった。
「…すまない。少し取り乱したようだ。外で頭を冷やしてくるよ」
山南はそう言ってフラフラ立ち上がると部屋を後にした。
「よお、待てよ」
中沢琴が常安橋の中ほどまで来たとき、背後から原田左之助の声がした。
琴は立ち止まり、振り返った。
「…原田さん。昼間は助かったわ。ありがとう」
「ありゃあ、借りを返しただけだ。そんなことより、山南さんに黙って帰っちまうのかよ?」
琴はうつむき加減に小さく首を振った。
長い睫毛が風に揺れている。
「今は…誰とも喋りたくないと思うから」
「あんたとだけは別だろ。男ってな、そういうもんだぜ」
「あなたは誤解してる。私と山南さんはそんな関係じゃない」
「ふーん、そうなんだ。へえ」
原田は戯れに欄干に身を乗り出して橋の下を覗き込んだ。
琴は何かを思い出したように顔を上げた。
「そういえば…老中首座の板倉というのはどんな男?」
「は?なんだって、そんな大物に興味があるんだい」
「清河の一件は、聞いたんでしょ」
「誰かさんに殺されたらしいってのはな」
「家里が言うには、その板倉勝静が暗殺の黒幕だって。ま、なんの確証があるわけでもないけど」
「なぁるほど」
原田は川面に映る自分の影を見ながら、腑に落ちたという風に小さくうなずいた。
「けど、なぜそれを俺に聞くんだ?」
「彼は松山藩主なんでしょう?」
琴は、料理屋で原田が松山の産だと言ったのを覚えていた。
「ああ、それで。けど残念ながら、俺の出は伊予松山(現在の愛媛)で、板倉氏は備中松山(現在の岡山)の殿さんだ」
「そうか、ごめんなさい」
「いいさ。あのバカ殿さまが考えつきそうなこった」
琴は少し意外そうに原田の顔を覗き込んだ。
「関係のない領主の見立てにしては、妙に棘があるわね」
「ちょっとした因縁があってな。俺の槍の師匠ってのが、奴のくだらない自尊心のせいで松山を追われたんだ」
「種田宝蔵院流の?」
「ああ。腕の立つ師匠だったが、不幸なことに女ったらしで放蕩者の兄貴がいてな。そいつが板倉の娘、つまり備中のお姫さんに手をつけちまったんだ」
「道ならぬ恋、か」
「そんな上等なもんじゃねえさ。そこが厄介なんだ。みっともねえ艶聞をわざわざ大っぴらにも出来ねえし、適当な理由をでっち上げて、谷家、つまり師匠の家ごと取り潰しちまいやがった。てな訳で、今じゃ貧乏道場の主人さ」
「自分に都合の悪い不祥事を闇に葬るのは天上人の常ね」
琴はなにかの思いに囚われたように呟いた。
「だとしたら、清河を殺したのが俺じゃなくてよかったぜ。へっ、そんな野郎に操られるのはまっぴらだからな」
原田は欄干を軽くコツコツと拳でたたいた。
「ねえ。その谷って、南堀江で道場を開いてるひと?」
「そうだが。あんた、知ってんのかい?」
「ええ、少し」
「元気にしてんのかなあ」
「そうね、お金がないことを別にすれば」
琴はようやく少し微笑んだ。
「てか、山南さんは…」
原田が琴に向き直ったとき、すでに彼女は背を向けて歩いていた。




