崩れ落ちる塔のように 其之弐
家里次郎は、自分の身体に浅く傷をつけることしかできなかった。
しかも、介錯を仰せつかった野口健司には経験がなく、のたうち回る家里の様子に恐れをなして動くことすら出来ない。
その時。
部屋の障子が開いて男装の中沢琴が姿を現した。
「失礼する」
入り口のそばに座っていた平間重助が鬼のような形相で立ち上がった。
「なんだお前は!今まさに腹を召されようとしている御仁に無作法であろう!」
「おいまて」
芹沢鴨が琴の顔を大鉄扇の先で指した。
「顔を上げろ浪人。ふふ、その麗しきかんばせには見覚えがあるぞ。お前…浪士組にいた奴だな」
二人が顔を合わせるのは浪士組が京に入る前日の大津宿以来だ。
「まだ、京に残っていたのか」
琴はそれには応えようとせず、ただ、
「沖田殿に預けた刀を返してもらいにきた」
とだけ告げた。
土方が口元を歪め、追い払うように手を振った。
「出て行け。見りゃ分かるだろ。いま、取り込み中だ」
家里は黄ばんだ白絹の上に頭を突っ伏し、痛みに踠いている。
中沢琴は、山南が部屋の入り口に立てかけておいた自分の二尺八寸の差料に手を伸ばした。
山南敬介はその時、確かに見た。
その刀はまるでその手に吸い寄せられるように琴の方に倒れたのだ。
しかし、目を疑う間もなかった。
琴は柄を掴むなり、スラリと抜きはなった。
「これだけ苦しめば十分でしょう」
一同は身構えたが、その浪人が介錯を買って出たのだと気づくのに時間はかからなかった。
だが、ひとり、斎藤一だけは違った。
「女、その格好でまた俺の前に立つとはいい度胸だ」
ボソリと言うと、左手で引き寄せた刀の鯉口を切った。
彼は、仏生寺弥助の上段蹴りを交わしたただ一人の”女”というのが、この浪人ではないかと結論づけていた。
「女だと?バカ言え、斎藤。そいつはな、俺がもうツバをつけてあんだよ。手を出すな」
芹沢鴨が薄笑いを浮かべる。
「あんたの指図は受けん」
斎藤はギロリと芹沢を睨み返した。
「勝手に話を進めるのはやめてくれ」
琴は面白くなさそうに吐き捨てると、鞘を払った。
その刀は、まるでこれから人の血を吸うことが分かっているように、
しっとりと艶かしい光を放った。
刃文が、まるでゆらゆらと波打っているように見える。
だが、
琴と斎藤が視線を交錯させたその刹那。
山南敬介がまるで居合抜きのような早技で刀を抜き、有無を言わせるまもなく家里の首を落とした。
琴はしばらくの間、ただ呆然と転がるその首を見つめ、そして刀を鞘に収めた。
「刀を納めたまえ斎藤くん。ここは神聖な場所だ。いま抜けば私闘と見なす」
山南は抜き身のまま、険しい目で斎藤を見下ろした。
「ウム…」
そう言われては引くしかない。
斎藤が低く唸った。
山南は袂から懐紙を取り出し、刀の血糊を拭き取ると静かに元の席に戻り、目を閉じた。
「まあ…上出来だ。片付けとけ」
芹沢はそう言い放ち、野口の肩をポンと叩くと席を立った。
「ちぇ…今日は散々だ」
芹沢の背中を見つめながら野口がボヤいたそのとき、
近藤勇が猛然と立ち上がった。
「歳!ちょっと来い!」
近藤は土方歳三の腕を乱暴に掴み、引き摺るように部屋を連れ出した。
「おいおい!」
ただならぬ雰囲気に、井上源三郎が後を追う。
山南は、正座したまま動かない。
琴は山南にかける言葉が見つからず、そっと部屋を出た。
井上源三郎が二人を追って会所の裏手に回り込んだとき、近藤は土方を殴りつけていた。
「バカ野郎!お前、自分が何をしたか分かってんのか!」
土方は勢いで会所の鎧張りの壁に叩きつけられ、ズルズルと座り込むと、うっすらと血のにじむ口元をぬぐった。
「分かってるつもりさ…正論を言ったまでだぜ」
「お前の一言が、後戻りできない一線まで皆を追い込んだんだぞ!」
近藤の詰問に、土方はニヤリと笑って答えた。
「ああ、それも知ってる。だが俺の一言だ。あんたのじゃない」
「と、歳…お前…」
近藤は切れ長の目を見開き、やがて絶望したように肩をおとした。
「…すまん。取り返しのつかないことをしたのは俺の方だった。…総司にも、お前にも」
そう言い残し、近藤は井上の脇を無言で通り過ぎてその場を去っていった。
「ぺっ!謝るなら最初から殴んなよな!馬鹿力が!」
土方は道端に血を吐いて毒づいた。
「つくづく…」
井上源三郎は土方に手を差し出し、
「お前さんも損な性分だねえ。分かってるとは思うが、ありゃあ殴っちまったから謝った訳じゃないよ」
そう言って土方の腕を握ると助け起こした。
この後、新選組はその短い歴史を通じて脱走者の絶えることがなかったが、その中でも運の悪い者は捕らえられ、隊規違反の廉で自決を迫られた。
その数は優に10名を越えたと伝わる。
そして、その最初の犠牲者が家里次郎だった。




