愚か者の舟 其之伍
霧雨が大坂の空に淡い模様を描きながら落ちていく。
清河が死んだ。
なにか現実のこととは思えなかった。
いや、
本当にそうだろうか。
清河と最後に別れたあの茶屋で、こうなる予感のようなものがあった気もする。
二人は町家の隙間のような細い路地に入ると、壁を背にして地べたに座り込んだ。
「バカみたい!」
最終的に琴を支配したのは、ある種の悔しさを伴った怒りの感情だった。
「まあ、そう言ってやんなよ」
事情を知らない阿部は家里の事情を慮って庇ったが、琴が言ったのは家里のことではなかった。
琴は突然、刀を鞘ごと腰から抜くと、阿部にヌッと差し出した。
「なに?」
「あげる。タケミツも失くしちゃったんでしょ」
「いいのかよ。ずいぶん高そうなもんじゃねえか」
阿部はそれを受け取ると、柄の握りを確かめるように手首を返して鞘を眺めた。
「ふん、眼が効くのね。どこまで本当だか知らないけど、なんでも謂れのある宝剣で七星剣とかいうらしいわ。けど、もういいの。持ってても使わないから」
「し、七星剣だと!おまえ、これをどこで手に入れた?!」
それはまさに、阿部があの清明神社で盗もうとした宝剣の名だった。
「どうでもいいでしょ、そんなこと」
突っぱねたあと、琴は思い直したように呟いた。
「…貰ったの」
「貰ったって、誰に?」
琴はその名を口に出すのをためらった。
言葉にすれば、この喪失感が現実になってしまう気がした。
「清河」
「清河、ってさっき家里が言ってた、清河八郎か?」
琴が無言でうなずく。
二振りの宝剣を探している蒐集家というのがその清河であれば、滑稽という他ない。
「ハッハ!こいつは傑作だ。石塚の野郎、買い手が死んだのも知らず、今ごろ必死でもう一振の宝剣を探してるぜ!」
なぜ清河は、そんな大切な刀を自分にくれたのだろう。
そんなことを考えた琴は、ふとある事を思い出した。
「俺が死んだら開けてくれ」
そうだ。
あの大津宿での密会で、清河八郎はそう言っていた。
琴は懐に手を入れ、あれ以来、肌身離さず持ち歩いていた封書に触れた。
油紙に包まれた封書は、先ほどの水難からも逃れている。
この手紙を開ければ、清河が託した未来の一端が見えるのかもしれない。
何かを恐れるようにその手紙取り出した琴は震える手で封を解いた。
横から覗き込んでいた阿部の眉間にみるみる縦じわが刻まれだ。
「はーん?これが遺言の宛名?なあ、こんなのどうしろっていうんだ」
ー法輪寺に座する僧へ。二つ目の慶事を願い、後事を託す。
表に書かれていたのは、たったそれだけだった。
「…なんとかして、この僧侶に手紙を届けろってことでしょうね」
琴は紙を折りたたみながら、なかばあきれたように唇の端を吊り上げた。
「こんな謎かけみたいな遺言を残すなんて。まったく、あの男ときたら、死んだ後もまだ悪ふざけをやめない気だわ」
「なんだよ。中身は読まないのか?これじゃあ何のことやら。だいたい、この坊主だっていっつも座ってる訳じゃねえだろが!逆に座らねえ坊主なんて居ねんだから、分かるわけねえよ!」
「やめて。私が勝手に中身を読むわけにはいかない。このあて先を手がかりに、これを読むべき人間に渡せって言葉遊びよ。そういう奴なの。その刀の持ち主は」
同志に宛てたものだと聞いてはいたものの、自分には一言もなかったことに琴は少なからずショックを受けていた。
清河は自分が殺されたあと、琴を危険に巻き込むつもりはないようだった。
だが、それが寂しい。
この手紙を届けたとき、自分と清河八郎の縁は、永遠に切れる。
「なんだよ。泣いてんのか?らしくねえな」
「…うるさい」
俯いた前髪から涙のような雫が滴る。
琴はその紙をついに開かなかった。
家里次郎は駆けに駆けた。
このあたりは、長らく潜伏していたせいで地理も熟知している。
確かにここは入り組んだ細い路地も多く、身を隠すには絶好の街だ。
何度も何度も辻を曲がり、その度に振り返った。
そしてもう誰も追ってこないことを確信した家里は、とある町家の物陰でようやく息をついた。
喉の奥がカラカラに乾いている。
しかし。
「芹沢先生、こんなとこにネズミがおりまっせ」
声にふり向くと、そこにはニヤニヤした佐伯又三郎が立っていた。
その背後から芹沢鴨の巨躯が現れたとき、家里の腰はついに砕けた。
「おやおや先生、ちょっと見ないうちに随分凋落した雰囲気になり果てたな」
もはや逃げる気力も失せた家里次郎は、あっさりと捕縛された。




