愚か者の舟 其之参
琴たちの乗る小舟は、野口の重みで左右に大きく揺れて今にも沈みそうだ。
川面には幾重にも漣が立っている。
「霧雨に煙る川面に杯を傾ければ、小舟と戯る愚者の群れが泡沫とともに浮かんでは消えてゆく…ん~風流だねえ」
原田は雨粒の肌触りを愉しむように手のひらを窓の外にかざしている。
「私たちもそのバカ集団に片足突っ込んでんですよ!ねえ、どうすんのさ!」
「…俺たちゃ、あくまで中立さ。この見世物の観客なんだから。だが」
「だが、なに!」
沖田がイライラして襟首を掴もうとしたとき、原田が振り返った。
「おい、ちょっとそこの茶碗取ってくれるか?」
「え?…これ?」
「…いや、やっぱり、そこの火鉢を貸せ」
「なんなのさ」
「いいから」
「なんなんだよ、まったくもう」
沖田は眉をひそめながらも、言われるままに小さな火鉢を抱えると、原田に差し出した。
原田は火鉢を軽々と片手で掴み、手のひらでズッシリとした重みを確かめてから、思い切り窓の外に放り投げた。
「取っとけ!うなぎの代金だ!」
火鉢は一直線に野口を直撃した。
「え?なに?ウナギ?あーーー!ののの、野口くん!な、な、何てことすんだあアンタあ!」
沖田は一瞬呆気にとられていたが、我に返って原田に掴みかかった。
「いや、あの程度で死にゃしねえよ。てか、お琴ちゃんにはちょっとした借りがあってな」
「そんな言い訳があるかー!一体、お琴さんにどんな借りを作ったんだ!」
「いやまあ、いいからいいから。おーい!これでこないだのはチャラな!」
琴はいきなり飛んできた火鉢の方向を目で追って原田の姿を認めると、にっこり微笑んで見せたが、すぐまた足元に目を落とした。
急に重石が取れた阿部が、舟に這い上がってきたのだ。
阿部はずぶ濡れの着物の裾を絞りながら毒づいた。
「思わず飛び出しちまったが、考えてみりゃ俺には関わりのねえことじゃねえか。いかんいかん、後ろめたい仕事ばっか引き受けてるから逃げるのが癖になってやがるぜ、畜生」
脳裏に、あの人斬り以蔵の不気味な顔がよぎる。
慌ててそれを手で振り払ったが、なにやら腰のあたりがスースーする。
「くそ、マジかよ!形ばかりの竹光もどっかいっちまった。あ!コレにくっついてたユニコオルだかなんだかもねえ!」
帯にはあるはずの刀がなく、あの印籠だけが引っかかっている。
「なにを呑気なこと言ってる。生きてるだけありがたいと思え」
冷ややかに言う琴を、水も滴る阿部が睨みつけた。
「九郎、てめえ!今までどこ行ってやがった!」
琴はそれには答えず、櫂で川縁の石垣を突いて、舟に勢いをつけた。
「うおっと!」
阿部はバランスを崩して舟のへりにしがみついた。
「ちゃんとあの場にいたよ。隣の部屋から様子を伺っていた。あなたが下らない誘いに乗るんじゃないかとヒヤヒヤしながらな」
「ば、馬鹿いえ!」
「…だな。何度も“修羅場“を踏んだあなたなら、いま、この上方で薩摩を敵に廻すのがどれだけ危険なことか、分からないはずはないもの」
「偉そうに訳知り顔で説教垂れてんじゃねえよ!そもそもてめえが遅れなきゃこんなことに…ていうか、あーっ!お、お、お、おまえ!」
その時、阿部はようやく重大な事実に気がついた。
先ほどの騒ぎで同じく大量の水飛沫を浴びた琴の身体には、びしょ濡れの着物が張り付いて女性的なラインがはっきりと浮き出ている。
「お、女か!」
「まあね…もうあなたに隠す意味もないから、いいけど」
琴はやれやれと言った顔で、川に張り出したしだれ柳の枝をかき分けた。
「あ、あーそ。そうなの。あーよかった」
「なにが?」
いきなり飛び掛かられるのも覚悟していた琴は、なんだか肩透かしを食らわされた態でキョトンとしている。
もっとも、琴に阿部の心の動きなど分かるはずもなかった。
この中沢九郎に対して淡い恋心のようなものが芽生えていることに気を揉んでいた阿部は、むしろホッとしていた。
「う、うるせえな!なんでもねえよ!なーんか変だとは思ってたんだ。ていうか、あんた、女だてらに浪士組に入るなんざイカれてるぞ!」
「自分でもそう思うが、色々あったんだ」
琴がムッとして言い返すと、阿部もぶっきらぼうに応じる。
「…で?本当の名は?」
「中沢琴。初めまして、だけど、命を助けてやったのはこれで何度目?」
「ちぇ!もういいよ!だいたい俺はあんな奴らから狙われる筋合いはねえんだ。狙われたのはこの兄さんだろ?」
ちょうどその時、ようやく追いついた家里が舟のへりに手をかけて、阿部はその揺れに任せて力尽きたように仰向けになった。
「…いや、それも、もうどうでもいいや」




