愚か者の舟 其之弐
そのころ。
芹沢鴨ら浪士組の残党に詰め寄られ、青くなった家里は膳をひっくり返し、辺り構わず徳利やら皿やらを投げつけ始めた。
「うわっ!こらっ!やめろ!」
平間重助が腕を交差させて身を護る。
しかし、さすが独眼竜の強者平山五郎は、剣先で飛来物を軽くいなし、
「往生際の悪いやつだな!」
と斬りかかった。
家里はすんでのところでその切っ先を交わし、巻き添えを食らいそうになった阿部も、両手を広げて飛び退いた。
「うわー!なんだなんだ!」
騒ぎのさなか、顎をさすりながら部屋に戻ってきた野口が、ひとり廊下に突っ立っている芹沢に向かって階下を指差した。
「せ、芹沢さん、なんかもう一人怪しい浪人が下に!…おお痛てて」
その時、
「おい!こっちだ!」
窓の外から阿部には聞き覚えのある声がした。
阿部が身を乗り出してみると、櫂を片手に小舟を操る中沢九郎(琴)がこちらを見上げている。
「く、九郎?おまえ何やってんの」
「いいから早く!」
「バカ言うな。そっちは川じゃねえか」
「入り口は抑えられている!飛び込め!」
阿部は先斗町の料亭で追い詰められた時のことを思い出してしまった。
あの時は、飛び込む一歩手前で間一髪救われたのだが。
「結局、こういう羽目になんのかよ!」
だがすでに、敵は芹沢鴨以外の全員が刀を抜いていた。
「ハーア、選択の余地ナシかよ…南無三!」
阿部は手を合わせて、窓の外に身を躍らせた。
「あ!このやろ!逃げんのか!」
平山が一瞬見せた隙をついて、今度は家里が飛び降りた。
ドボンという音が立て続けに聞こえた後、座敷は一瞬静まり返った。
さっきまで二人が立っていた窓際には、竹光と奇妙な根付だけが残されている。
部屋が空いたところで、ようやくノッソリ入ってきた浪士組の首領芹沢鴨が、その根付をつまみ上げてシゲシゲと眺めた。
「ほう。こりゃ珍しい置き土産だ。ユニコーンの根付か」
「なんです?」
平山五郎が残った眼をすがめた。
「万病に効くってな。縁起もんさ。…そんなことより、いいのかよ。奴ら逃げちまったぜ?」
「あ!健司!佐伯!追え!」
我に返った平山が窓の外を指差して怒鳴った。
「お、追えって…ええ?」
佐伯は一度川を覗いてから振り返り、平山の真意を問うように顔色を伺った。
「飛び込めつってんだよ!」
「いやいや、ちょっと待ってくださいよ!」
「グダグダ言ってねえで行け!」
「あーあー、もう!こうなりゃ、やってやらあ!」
ヤケクソになった野口が叫んだ。
「おいちょっとあんた!あーあ、行ってもうたがな。行くよ、行きますよ。行きゃええんですやろ」
ノロノロ手摺をまたぐ佐伯を平山が蹴落とした。
「もうメチャクチャだ…」
平間重助がかぶりを振ってボヤいた。
阿部→家里→野口→佐伯。
次々と凄まじい水飛沫があがる。
蜆川沿いにある座敷のあちこちから、何事かと客たちが顔をのぞかせた。
下で待ち構えていた琴は、まともに水を被った。
「あーもう…なんて割りに合わない仕事なの!」
「そおら、腰を落ち着けるまでもなく、さっそく動き出したぜ、総司」
対岸の曽根崎新地側にある料理屋の座敷に陣取り、蜆川にせり出した窓に腰掛けて居た原田左之助は、沖田を振り返った。
「んなもん、見りゃわかりますよ」
舟につかまろうとジタバタあがく阿部と家里、それをヤケクソで追いすがる野口と佐伯。
やがて、その佐伯又三郎が、舟の上にいる琴に気づいた。
「ガハ!おまえ!あの時の!」
琴は天を仰いだ。
「やれやれ、どういう巡り合わせなんだか」
「ガフ、おまえも仲間、ガボか、ちょうど、ボガいい!島原の借りを、返すぜ!」
猛然と水を掻き、佐伯が船のヘリに掴まろうと手を伸ばした刹那、
琴の櫂が、その後頭部を直撃した。
「グエ!」
佐伯の姿は泡を残して川底に沈んでゆき、しばらくして少し川下から仰向けにプカリと浮かんできた。
「ごめんね」
阿部慎蔵はというと、野口健司に脚をがっちり掴まれてなかなか舟に近づけなかったが、ようやく舟の端に手をかけると、なんとかもう片方の脚で野口を蹴落そうともがいた。
「こいつめ!離せ!この!この!この!」
この滑稽極まりない騒動を見物していた原田左之助は手を打って喜んだ。
「総司!お座敷からこんな面白いもんを眺めて酒が飲めるなんて!俺ぁ今、京に来て本当に良かったと思ってるぜ」
原田の気性を知る沖田はさもありなんといった風にため息をついた。
「でしょうね。ん?あれ、お琴さん?てか、あの隣に居んのは…」
よく見れば、見知った顔ばかりが並んでいる。
沖田は思わず窓から身を乗り出した。
「おおい!お琴さーん!」
「バカ!呼ぶな!」
原田は、脱走者の家里次郎の姿があるのに気づいて、金戒光明寺での会津の小鉄と広沢の密談を思い出していた。
「…驚いたな。ほんとに居やがったよ」
「でもコレ、わたしたちはどっちの味方をすりゃいいんです?」




