脱走者に罰を 其之壱
時は春、
日は朝、
朝は七時、
片岡に露みちて、
揚雲雀なのりいで、
蝸牛枝に這ひ、
神、そらに知ろしめす。
すべて世は事も無し。
しかし1863年、梅雨どきの大坂にいる阿部慎蔵にとって、世界はロバート・ブラウニングの詩のように、美しさと優しさに満ち満ちていたわけではなかった。
「ちぇ、この長雨で、窓までカタツムリが這い上がってやがら」
幸町、旅籠鳥毛屋の二階。
窓ベリに腰かけた阿部は、カタツムリを指先で通りに弾き飛ばした。
「…う〜ん、どうしたもんか」
柄にもなく、なにやら難しい表情で考えをめぐらせている。
そもそも大坂に阿部が舞い戻った目的、それは、借金取りの石塚岩雄という浪人に会うためだった。
阿部がここに至るまでにたどった流転と放浪の日々を語れば、一個の大長編小説が書けるほどの紆余曲折と驚きに満ちた冒険があったのだが、誰も興味がないと思うので、それは割愛する。
「要するに、あちこちで聴いた噂を総合すると、石塚のやろーは谷万太郎道場が抱える債権を一手に買い取って、道場を土地ごと差し押さえる気でいやがるらしい」
阿部としては、この厄介な交渉相手をなんとか説得して、返済を引き延ばしたい。
借金取りにズカズカと道場に上がり込まれ、師である谷万太郎の眼の前で金の話をされるのをはばかった阿部は、先手を打って、こちらから話し合いを申し入れた。
まず、交渉を有利に進めるためには、こちらの土俵で戦う必要がある。
「そこまではよかったんだ」
阿部は敷きっぱなしの布団の脇にあった書付を3枚手に取った。
石塚から場所を指定しろと矢の催促がきているのだ。
「こ、これもまあヨシとしよう」
あわよくば元金ごと踏み倒してやろうなどと虫のいいことを目論んでいた阿部にしてみれば、端から少々手荒な交渉も辞さない覚悟である。
「そのために苦労して凄腕の中沢九郎(琴)を引き込んだんだからな」
と、自分を納得させるように呟いた。
だが、
その肝心の中沢九郎(琴)が、昨日来姿をくらましている。
計画は、根本から見直しを迫られていた。
「どうにも先走っちまったなあ。こんなときにバックれやがってあの野郎。もうこうなりゃどうとでもなれだ畜生!」
などと、ない知恵を絞った末、結局捨て鉢になっていたところに、
襖が勢いよく開き、旅籠の女中が仏頂面をのぞかせたのだった。
「お客はん!またお手紙が届いてまっせ!」
女中はいつまでも部屋を出ようとしない迷惑な客に、精一杯の態度で意思を示したが、阿部は意に介さず手紙をひったくる。
「またかよ!よこせ!ん?これ…」
それは、明らかに石塚岩雄のものとは異なる流麗な文字で認められていた。
「紀ノ国屋ニテ待ツ。本正午、掛取リト同行サレタシ」
待ちに待った中沢九郎(琴)からの便りは思いもよらぬ内容だった。
つまり、今日の昼、借金取りを連れて来いと言うのだ。
「驚いたな。あのやろ、俺を差し置いて、ちゃっかりあの料亭に潜り込んだらしい。いったいどんな手管を使いやがった?」
それはさて置いても、せっかく琴がセッティングしてくれた機会を逃す手はない。
阿部は慌てて紀の国屋で密会する手筈を整えなければならなかった。
「おい!女中さん待った待った!ちょっと今から手紙を書くから!これ、届けて」
「えー!!まだ部屋空けてくれはらへんの!?ええ加減、掃除したいんですけど!」
一方、浪士組近藤勇らは。
昨日、天保山の港から順動丸の船影が豆粒ほどになるまで見送ったのち、
波の音と行楽地の賑わいを虚しく聴きながら、将軍の帰港を待った。
自分たちの無力さを思い知るには充分な時間が過ぎ、
そして、海が茜色に染まる空の色を映す頃、船は着岸した。
翌、廿四日。雨
会津藩公用方、秋月悌次郎からの説明では、徳川家茂はこのまま大坂城に留まり、攘夷に向けて勝海舟が提言した海軍学校の設立やらなにやら、色々な決済に追われているらしい。
ただ、この滞在がいったいいつまで続くのか、明確な指示もないまま、壬生浪士組は、またもやいたずらに時を過ごすことを余儀なくされている。
かと言うとそうでもなく、
阿部が鬱々と雨を眺めていたその同じ頃。
筆頭局長芹沢鴨は、朝から忙しそうに身支度を整えていた。
「やあれやれ、誰がなんのために引き伸ばしてるんだか、大坂滞在は長引きそうだぜ。そうこうしているうちに、面倒ごとが起きなきゃいいが。ケケケ!」
豪商の多いこの土地では、ゆすり、たかりのタネがゴロゴロしている。
もっともそれは、攘夷のための”御用金”召し上げというもっともらしい名目で横行していた。
平間重助、平山五郎、野口健司、そして佐伯又三郎。
ぞろぞろと水戸一派を引き連れ、出かけてゆく芹沢を横目に、副長土方歳三が、わざと聞こえる程度の小声で皮肉った。
「チッ、よく言うぜ。どうせ大坂まで来たついでに一稼ぎして行こうって腹だろ。今は公方様がやってきて奉行所もピリピリしてんだ。あんまり派手にやって、ヘタを打たないでくれよな」
「なんか言ったか副長さん!ぁあ?」
取り巻きのひとり、隻眼の剣士平山五郎が凄んだ。
「まあまあ平山、そう怒んなよ。土方くんはなにか考え違いをしてるんだろうぜ。なんつってもよ、俺たちゃ”取り締まられる側”じゃなくて、”取り締まる側”なんだからよ」
ニヤニヤしながら、芹沢がヒラリと紋付を羽織る。
土方も引き下がらない。
「こりゃ失礼いたしました局長殿。もっとも、考え違いをしてんのが俺だけならいいが。くれぐれもそこら辺とこを、この、」
挑発するように平山の額に人差し指を突きつけた。
「頭の悪そうな腰巾着にも、分かりやすく言い聞かせてやっていただきたいね。立場をわきまえて振舞うように!ってな」
先ほどの説明を訂正しなければならない。
大阪の人びとを脅かしていたのは、なにも攘夷派の押し借りだけではなかった。
そうした不逞浪士を取り締まり、徳川幕府の治世を護るといった理由で資金供与を強制する輩も大勢いたからだ。
「てめえなんだとこの野郎!」
カッとした平山が刀の柄にかけようとした手を、副長助勤永倉新八が抑えた。
「や〜めなよ、朝っぱらから暑苦しいったらありゃしねえ。土方さん、あんたもだ。ケンカなら外でやってくれ」
「相変わらず優等生だな、永倉」
土方が皮肉っぽく笑う。
「ああ、おれぁ生まれてからこの方、優等生で通してるんでね。人相の悪い男どもがガナリ合ってっと、震えあがっちまわ。さあ、行った行った!」
永倉は取り合おうともせず、手をヒラヒラと振ってみせた。




