メイド志願 其之壱
五月廿三日、夕刻。
「は?女中志願?」
北新地の料亭、紀の国屋の主人は、玄関の招き猫を撫でながら怪訝な面持ちで尋ねた。
「へえ。表に来とりますのや」
番頭は声を潜めて、親指で入り口を指した。
「え?なんで?自分から?」
「いや、なんでってわたしに聞かれても。なんしか、ここで働かせてくれ言うて」
主人は少し考えてから、ハタと膝を打った。
「ふうん。アレか?年増か?」
「まだ18か19がええとこ違いますかね」
「ほんなら、その、器量の方になんぞ不都合でも…」
「それが、ちょっとした芸妓より、よっぽど別嬪でっせ?」
主人はそこで、またしても考え込んだ。
年頃の、しかも見映えの良い娘がひとりで遊郭にやってきて、今日から働かせろなどということがあるだろうか。
「な〜んや裏がありそうやな。どこぞのヤクザ者の妾が逃げ込んできたんちゃうか?」
「どないですやろ。せやけど、ありゃお座敷に揚げる類の玉やおまへんな」
番頭はアゴを撫で撫で、訳知り顔で何度も頷いた。
「なんでや」
「これがまた、えらい無愛想な娘で」
「はっは〜ん。そうで無うても、昨日も得体の知れん二人組が来たとこやし。用心には用心をや。おまえな、ちょっとひとっ走りして、万吉親分に知らせてこんかい。なんやったら引き取ってもらえ」
もちろん、その無愛想な娘とは、中沢琴だった。
花街で女物の着物を手に入れた琴は、髪結いで島田髷に結ってもらうと、薄く紅を引いて、ふたたび紀の国屋を訪れた。
一か八か、相手の懐に潜り込む賭けに出たのだ。
が、まさかヤクザに知らせが走ったなど、露ほども思っていない。
当時、大坂では明石屋万吉という侠客が、横堀から西の広大な縄張りを仕切っていた。
歳はまだ三十路に入ったばかりだが、渡世ではすでに立志伝中の人物で、誠実かつ頼りになる大親分として市民からも絶大な人気を誇っている。
ところが紀の国屋の番頭は、出て行ってすぐに、その英雄本人を連れて戻ってきた。
「え!こりゃあ。親分さん自ら恐縮だす」
主人が驚いて腰を浮かすと、
「いや、ちゃうねんちゃうねん、たまたまな、近所に居ってん!」
明石屋万吉は、手をヒラヒラと振って見せた。
一見すると、広大な縄張を持つ一家の親分とは思えない、なんとも剽げた男だ。
「実は親分さん…」
主人が事情を説明しようとするのを、万吉が扇子を振って遮った。
「ああ、このお琴ちゃんのことやろ?そや、そや、そや、この娘やったらな、大丈夫やで。ワシとこの兄弟分から預かっとる子や。ほんこないだな、京から出て来たんやけど、強情な娘でなあ。わしが面倒見たるゆうても自分の食い扶持くらい自分で稼ぐゆうて聞かへんねん」
「は、はあ、そうでっか」
「よお働くさかい、あんじょう面倒見たってや。な?な?な?あんじょう頼むで!ほなな、ほなな!」
琴は突然現れた見も知らぬ男が自分の身上を請け負ってくれたことに困惑して、
言うだけのことを言って、せっかちに出てこうとする男の背を追った。
「あの…お口添えは有難いんですけど、どう考えてもわたし、あなたとお会いするのは初めてです」
通りに出た万吉は、さも愉快そうに笑った。
「ひゃっひゃっひゃ!キツネに摘まれた顔ちゅうのはこのこっちゃな。なにね、京の仙吉さんからあんたの事、頼まれてましたんや。背が高うて、負けん気が強そうで、ごっついお転婆の美人がそっち行くから、なんぞ厄介ごとを起こしたら助けたってくれ言うてね。そりゃもう、ひと目見て、すぐにあんたやて判ったで」
「仙吉…というと、会津小鉄のこと?」
「いとさん、大恩人に対して呼び捨てはあかんやろ。あの人の口利きがなかったら、ワシゃとっくにあんたの首落としてるで」
急に冷めた口調で声色を落とした万吉には、大坂の半分を支配する侠客に相応しい凄味があった。
しかし、琴は持ち前の勝気さで、その目をキッと見返す。
「こう言ってはなんですが、たかだか地回りのヤクザにそんなことが許されるのかしら」
「おーお、鼻っ柱の強いこと。仙吉さんがあんたのこと気に入った訳が分かったど。けど、なんちゅうても、ワシゃこの辺の治安を護っとる小野藩から、直々にお墨付きを貰うとる。わしが不逞の輩と判断したら、それだけで充分あんたを斬って捨てる理由になるんやで?」
まさかひと一人殺してお咎め無しということもあるまいが、その話の半分は本当だった。
が、それについての説明は後に譲ろう。
それより、この短期間で大坂にまで手を回すことができる会津小鉄という男の底知れない人脈に琴は驚いていた。
そもそも、彼はどういうつもりで琴の肩を持つ気になったのか。
「まあいいわ、明石屋万吉さん。今回は素直にご厚意を受けます。けど、今後手出しは無用に」
「ははあ!聞きしに勝るお転婆やな。なにを企んでんのか知らんけど、ほな早よ行って働きなはれ。早速お客さんやで」
「あ」
琴は行きかけたが、ふと立ち止まって振り返った。
「それから、覚えておいて。そう簡単にわたしの首は獲れないから」




