ファム・ファタール 四幕
「楽しかったですねえ」
沖田総司は、ニコニコしながら緋毛氈の敷かれた玄関に揃えられた草履を引っ掛けた。
先に立つ土方が胸を反らせ、懐で腕を組んだまま首だけ振り返った。
「ハ!あの程度で喜んでるから田舎もん扱いされんだよ。隣でドンチャン騒ぎしてた御家人どもが座敷にあげた、若鶴って太夫を見たか?俺はな、こっちにいるうちにあの女を落とすぜ?」
源三郎が呆れた顔で、暖簾を搔きわける。
「相変わらずというか…何しに来たんだかねえ」
「ハハ、いいじゃねえか。英雄色を好むってな」
井上松五郎は、後輩たちの様子に満足したようにうなずいた。
余韻に浸りながら、東大門を出ようとする土方らに、茶屋の立ち並ぶ辻から、大きな風呂敷包みを抱えた下女が小走りに追いついて来た。
一同は、茶屋から何か忘れ物でも届けに来たのかと思ったが、その女が包みと一緒に長い刀を小脇に挟んでいるのに気づいて、はじめて緊張した。
が、下女はかまわず土方に歩み寄ると、頰を寄せ、突然小声で耳打ちをした。
「…姉小路公知が大阪入りする。こんなとこで暇を潰してていいの?」
沖田総司が、パッと表情を輝かせた。
「あー!お琴さん!」
その下女、中沢琴は、少し顔をしかめると、人差し指を唇の前に立て、沖田の大声を封じた。
「…猫は?」
「ね、猫?あ!ああ、八木さんちで、ちゃんと面倒見てくれてるよ。それより、こんなとこで何してんのさ?」
「ちょっとね、知り合いに、この着物を借りにきた」
琴は廓の下働きが着古した着物の袖をつまみながら大真面目に答えた。
「知り合い?ここに?」
「いいでしょ、私のことは」
彼女は、要らぬ内輪揉めを煽ることもあるまいという配慮から、家里次郎の件にはあえて触れなかった。
と、そこで土方が二人の会話を断ち切り、
「ふん、やっとらしくなってきやがったぜ。いい加減暇つぶしの種も尽きたところだ」
と嘯いてみせた。
「でしょうね。じゃ、あなたがこっちに来た目的とやらを遂げるために、ひとつ、いいことを教えてあげる」
軽くあしらう琴に、土方はピクリと眉を動かした。
「あ?」
「津国屋という置屋に、“花の井(足洗いの井戸)のサムライ”の名で付け文してみなさい」
「なんだそりゃ?」
「お目当ての若鶴太夫に逢えるかも」
琴はククと含み笑いを漏らした。
「てめえ!舐めやがって!」
琴は掴みかかる土方の腕をヒラリと交わすと、沖田に二尺八寸の長刀を押し付けた。
「それ、預かっといて。後で取りに行くから。じゃ、がんばってね」
そう言い残すと、何食わぬ顔をして、土方たちとは逆の方向に急ぎ足で去って行った。
実のところ、琴の方にも残された時間は少なかった。
数日前、洛北の賭場で、
岩吉と名乗る男が「長州藩の祐筆桂小五郎に」と前置きして、謎めいた伝言を仏生寺弥助に託けるのを聴いている。
「道を急ご思たら、まずは駿馬を手に入れるのが先決や。けど、馬を御するには手綱を捌く道具が要るちゅうこっちゃ。桂はんに、その馬のハミをとる気があるんやったら、大坂の北新地にある紀の国屋ゆう料亭を訪ねて、わしの名前を出してみい」
桂小五郎。
神道無念流練兵館で免許皆伝を授かったこの男は、江戸剣術界の有名人で、
その武名だけは、琴にも聞き覚えがあった。
その桂が、明日、23日には姉小路公知と、大坂入りすることになっているのだ。
そうなれば、桂もあの紀伊国屋を訪ねる公算が高い。
「手綱をさばくためにハミを取る轡」は、薩摩の家紋を指すに違いない。
それに気づいた琴は、岩吉のいう「駿馬」がなんなのか、それを突き止めたかった。
そのためには、桂があの料亭に訪れ、自分が偽の使者であることがバレる前に、是が非でも、あの小寅という女中を口説き落として、謎の薩摩人に顔つなぎしてもらう必要がある。
小寅とは何者なのか。
まだ、あどけなさを面影に残す運命の女が、
幕末最大の巨人と赤い糸でつながっていることを、
琴はまだ知らなかった。




