ファム・ファタール 一幕
翌、四月廿二日、朝の四つ正刻(11:00am)。
大坂、八軒家の船宿京屋。
大坂城から呼び出しのあった芹沢鴨と近藤勇は、朝早くから慌ただしく出かけてゆき、すでに居ない。
おそらく、その大坂城では、今ごろ将軍の近習らが、明日の摂海巡視の準備に追われているのだろう。
近藤らにも、会津の公用方から、天保山港までの警備に関する何某かの下知があるのかもしれない。
空は青く澄み渡り、これと言ってやることのない数合わせのお供、つまり浪士組の隊士たちにとっては、絶好の中休みである。
徳川家直属の八王子千人同心にしても事情は同じらしく、
その朝、源三郎の兄井上松五郎が、浪士組の投宿する京屋にひょっこり顔を出した。
「これは、わざわざ」
井上源三郎と副長土方歳三が玄関まで迎えに出ると、松五郎は相好を崩して片手をあげた。
「いやあ、ご苦労、ご苦労」
土方はいつものようにひねくれた調子で歓迎の意を表した。
「千人同心の世話役ともあろうお方が、こんな時に朝からフラフラしてていいのかよ?」
「なあに、千人頭(旗本身分の部隊長)なら色々煩わしいお役目もあろうが、我々なんぞヒマなもんさ」
「海に面した大坂は、外から入ってくる得体の知れない連中を防ぎにくい。悠長に構えてると、足元をすくわれるぜ?」
土方歳三という男が、刀を抜くしか能のない凡百の武士たちと一線を画したのは、誰から教わることもなく、こうした視点で物事を捉えることが出来た点だった。
大坂は京より西にあるので、薩摩、長州、土佐といった雄藩の要注意人物は、山陽道を通り、しばしばこの街で宿をとってから都を目指す。
海路を採っても、大坂の南にある天保山で上陸して京に入るのが一般的だ 。
つまり、都への出入りを見張るには絶好の場所で、のちに新選組もこの街に分署をかまえる。
因みに、この支部長に納まるのが、阿部慎蔵の師、谷万太郎なのだが、これはまた別の話だ。
「別に気を抜いちゃいないが、いよいよ攘夷に乗り出そうという大樹公をわざわざ邪魔だてする奴もおるまい。今日は前祝いだ。金は出してやるから、パーッとお座敷でも揚げるか?!」
源三郎が眉を寄せて、
「兄上、どれだけ手当が付いたのか知らんが、ずいぶんと豪気なもんだな。で、前祝いってなんの?」
と尋ねると、松五郎も同じような顔をして首をひねった。
「…いやなんのって…え?攘夷の?」
土方は飽きれて、二人の顔を交互に見比べた。
「やれやれ、血は争えんな」
しかし松五郎からすれば、口実など何でも良かった。
女と酒で憂さを晴らそうという訳でもないが、薄給で辛いお勤めに励む同郷の後輩たちと少し羽目を外して、ガス抜きをしてやろうという魂胆である。
「ほんとなら浪士組全員を引き連れて繰り出したいところだが、さすがに懐事情もあってな。今日は身内だけで勘弁してくれ」
土方は、気の抜けた顔で腕を組んだ。
「ま、たまにはいいか」
身内と聞いて、源三郎は階段を見上げた。
「あれ?そういや総司はどうした?」
土方が肩をすくめる。
「ああ、呼んでくるよ。なんだか知らねえが、あいつ朝から珍しく書きもんなんかしやがってよ。気味悪いったらないぜ」
抜け駆けすることに少々後ろめたさを感じている源三郎は、
「そぉ〜っと呼び出せよ」
と、皆の目を引かないよう注意した。
「やれやれ」
土方はまたそう言って軽く首を振ると、二階に上がって行った。
しかしコソコソするまでもなく、彼らが押し込められていた大部屋はすでにガランとしていた。
窓の外からは、チュンチュンという雀の鳴き声がうるさいくらいだ。
上方出身の少ない浪士組の連中が、せっかくの好機を逃すはずもなく、大坂の町で羽根を伸ばしてみたいと思うのは人情だろう。
見れば、部屋の隅に設えられた小さな床机に、長身の沖田総司がひとり背中を丸めて張り付いている。
「おい!松五郎さんが来たって言ったろ!」
土方は、襖に手を掛け、廊下から怒鳴った。
「…ああ、もうちょっと…もうちょっと待ってて」
沖田は振り返りもせず、筆を動かしている。
「早くしろ。なにしてんだ?」
「いや、お祐ちゃんに手紙をね」
「…へえ、おまえら、いつからそんな仲になったんだ?」
土方は、階下で待たせている井上兄弟のことなど即座に忘れて食いついた。
「そういうんじゃないんだけど、ちょっと報告をさ…」
「報告?報告って、あいつになんの報告があんだよ?」
「ああもう!変なとこで声をかけるから、間違っちゃっただろ!」
沖田は紙をクシャクシャと丸めて、土方に投げつけた。
土方は拾い上げた紙を拡げると、目をすがめて読み始めた。
「…一筆啓上…楢崎家長女の消息について、昨晩京屋主人忠兵衛殿より子細を伺い候えば…ナンダコレ?」
沖田はその時、初めて周りの様子が目に入ったようで、筆を持ったまま立ち尽くした。
「…うわ?誰もいない!なんだよ!みんな声もかけずに出てっちゃったのかよ!冷たいなあ!」
「まずその筆を離せ!墨が飛び散ってるだろ!ていうか、これ、この、楢崎なんとかと、お祐になんの関係が…」
「もういい!もう面倒くさくなった!帰って直接喋った方が早い!行こ行こ!飲みに行くんでしょ、どうせ!」
沖田は拗ねたように頰を膨らませると、先に立ってさっさと階段を降りていってしまった。
「てめえ、どんだけ自分勝手なんだ!こら!」




