貧乏道場の主
「おお、阿部さん。元気そうでなによりじゃ」
以前、「納屋に毛の生えた程度」と阿部慎蔵が評したその道場は、中沢琴の見る限り納屋そのものだった。
隙間だらけの板張りの小屋に、後から取って付けたような門には「種田宝蔵院流」の看板が打ち付けてある。
その前で、丸くて人懐こい顔をした道着の男が、ニコニコと阿部慎蔵を出迎えた。
-南堀江。
大坂の中でも、かなり時代が下ってから開発されたこの街は、いわゆる経済特区のような形態で幕府がテコ入れを行い、遊郭や劇場街、青果市場などが誘致されていた。
こうした方針が効を奏したのか、幕末の頃には一定の賑わいをみせていたが、どこか取り残されたようなこの一画を見る限り、その恩恵は町の隅々にまで行き渡っているわけではなさそうだ。
「意を決して会いにきてみりゃ、相も変わらず呑気そうでなによりだな、お師匠」
気の抜けた顔で阿部が応じる。
彼が師匠と呼んだ男は、名を谷万太郎―タニマンタロウ―といった。
のちに新選組の大坂支局長とも言うべき立場に就くことになる槍の達人だ。
世間は狭いもので、壬生浪士組原田左之助は、彼にとって種田宝蔵院流槍術の弟子にあたる。
そして、万太郎の兄三十郎は後新選組七番組長に、さらに弟昌武も隊士になっているから、なにかと新選組とは縁の深い三兄弟である。
阿部の話から勝手に初老の男性を想像していた中沢琴は、自分や浪士組の山南敬介らと同年代の若い道場主が出て来たので少し驚いた。
対する谷万太郎は、すこし斜に構えて身を引くと、会釈する琴をシゲシゲと眺めたのち、阿部に耳打ちした。
「…誰なら?ワシも会うたことある人じゃったかいの?」
妙にマイペースな男で、声のトーンを気にしないから、内緒話が全部筒抜けになっている。
「ああ、いや、こいつは中沢九郎といって、俺の親友です。今お互いの仕事を手伝ってるんだ」
「…おたがい、ね」
いつのまにか親友に昇格している…琴は複雑な笑みを浮かべて小さく頷いた。
「…そうですか。まあ、どうぞ。汚い道場ですが、お茶でも」
谷はなにやらホッとした様子で琴の先に立って歩きながら、阿部の袖をひっぱり、また耳打ちした。
「焦ったがー。放蕩癖がたたって、おめえもついに五つ櫓の陰間を連れ出しよるとこまできたんかと」
「な、よしてくれ!」
阿部は怖気だったように、その手を振り払った。
五つ櫓というのは、戎橋界隈にある劇場街の通称で、歌舞伎の女形を目指す役者の卵、すなわち陰間(転じて男娼の名称として使われるようになった)達が修行とアルバイトを兼ねて身体を売ったことから、つまり大阪のゲイタウンを指す。
琴はますます苦い顔をした。
「…全部聞こえてるんだけど」
「あ、失敬。貴方が、ぼっけえ綺麗な顔をしとるもんじゃけえ、変な勘繰りを。いやお恥かしい」
言葉とは裏腹に、谷は相変わらずノンビリした口調で謝った。
「じょ、ジョーダンじゃねーぞ!そりゃ、俺にも失礼ってもんだろ!」
阿部は男装の琴をまだ男だと信じきっていて、時々その横顔に見惚れてしまう自分を必死で打ち消していたから、谷の言葉が突き刺さったらしい。ムキになって反論した。
しかし、新町遊郭に琴を強引に誘ったことを思えば、谷の懸念の少なくとも半分は当たっている。
「へえでもアレじゃのう…入門者じゃったら、もっと良かったけどのう」
谷万太郎が残念そうにポツリと漏らした言葉には、これだけの美少年ならいい客引きになるという打算も混じっていた
「悪いが、こいつに剣の手解きなんざ無用だぜ。これだけ腕が立ちゃ、今さら槍に持ち替えることもなかろうしな」
阿部の勝手な憶測を、琴は慌てて打ち消した。
「そんなことはありません。どうした訳だか、今は修行まで手が回らなくなってるだけで」
「へえ。じゃあ、いいことを教えてやるがな。こんな師匠でも、種田宝蔵院流の槍だけは天下無双だぜ」
阿部の無遠慮な物言いには、逆に谷に対する親愛と尊敬の念が隠されている。
しかし、いくら道場主の腕が立っても、肝心の道場は閑古鳥が鳴いていた。
「今日は、あの騒々しい兄も留守じゃけえ、つまりこの道場は今、大坂で一番くつろげる場所ちゅうわけじゃあ。ゆっくりして行きゃあええ」
「で?そのバカ兄貴は、また新町の芸妓にうつつを抜かしてんのかい?」
「なら、まだええが。最近、浪士組だか言うのに、えろうご執心での。様子を見に行っとるんじゃろ」
「浪士組って、いま大坂に来てるあの?」
阿部は琴と目を見合わせた。
「ほうじゃあ。あれに加盟して、没落した谷家再興の足掛かりにしよう思よんじゃ。まあた、やっちもねえ夢を見とるが」
「まあ、一応松平家の傘下ではあるが、怪しげな連中だぜありゃあ」
「その浪士組の立ち上げにゃ、あの板倉勝静も一枚噛みよるらしいけえ、どうも因縁めいたもんを感じるゆうか、わしも良うない予感がしよるわ」
「道場がこの有様じゃあ、焦る気持ちも分からなくはねえな。しかしまあ、あの兄貴のことだから、放っておいても、すぐ飽きてまた女のケツを追い回し始めるだろ」
阿部はお寒い道場を見渡して、腰に手を置いた。
数人の弟子たちが、ささくれ立った床板につまづきそうになりながら立会い稽古をしている。
覚えのある杉板の香りに、おもわず琴の頰が緩んだ。
阿部は目聡くそれに気づいて冷やかした。
「あんた、ほんとに武芸が好きなんだな」
「この匂いを嗅いで、お弟子さん方の声を聴いてると、色んなことを思い出す」
「確かに、よく声が響きやがる。俺には呑気にかまえてる状況にゃ見えねえが。ところで、例の借金取りはいまでもちょくちょく顔を見せるのかい」
阿部はそれとなく水を向けた。
「借金取りとは、あの石塚とかいう男かえ?いや。なんたって、明日にゃ公方様がやって来るわけじゃけえ、世の中みな浮き足立って、取り立てや稽古どころやないんじゃろ」
谷万太郎に言わせれば、道場に弟子が集まらないのも、借金取りが来ないのも、すべて徳川将軍のせいだった。
「は〜ん、まだまだ公方様の人気も捨てたもんじゃねえな」
阿部は疑わしげに目を細めて、言い訳がましく作り笑いを浮かべる師匠のまん丸い顔を眺めた。




